2016年に急逝した雨宮まみの新刊『40歳がくる!』(大和書房/2023年11月)を年明けの書店でみつけた。真っ赤な表紙、くりぬいた窓から雨宮まみのすました横顔がのぞいている。彼女が生きていたらこの表紙にはならなかっただろうと思うけれど、目を引く表紙によって多くの人に読んでもらった方がいいなとも思って買った。彼女の死の直前、webで連載していた「40歳がくる!」と、10人の追悼文をあわせて編んだ1冊だ。彼女の突然の死の後も、雨宮まみのことが気になっていた人は多かったのだと思う。2021年には読者たちが語り合う同人誌『雨宮まみさんと、私たち』(鈴木沙耶香編)が刊行されたという。
雨宮まみを知ったのは『東京を生きる』というエッセイ集で、本の帯にはすでに追悼の文字が入っていた。私は彼女のどこに魅かれ、何に共感したのか。
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神保町の駅の階段で見かけた女性がいる。
黒いファーの襟巻に、軽そうで上等なウールのグレーのコート。黒いブーツ。
片手に持っているシンプルな形の革のトートバックの色はトープ。
銀髪のショートヘアは完璧な形に整っている。
差し色なんていう発想が下品に思えるほど、落ち着いたトーンの色だけで、際立った雰囲気をまとっていた。
私は彼女のあとをつけて、彼女の後ろに立って、ホームに電車が来るのを待った。
どんな仕事をしている人なのだろう。年齢はいくつなのだろう。
どんな暮らしをしていて、クローゼットにはほかにどんな素敵な服が揃っているのだろう。知りたいことはいくらでもあったけれど、ひとつだけ訊けるなら、
「何を大切にして生きれば、あなたのようになれるのですか?」
そう訊いてみたかった。
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『東京を生きる』のなかにあるこんな描写が好きだ。
あるいは、こんな一節。
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今年、東京では記録的な大雪が降った。つかの間、吹雪からのがれるために入った喫茶店で、近くの席に女の子が座っていた。20代前半だろうか。艶のある綺麗な茶色のショートヘアで、二重で大きな目。1人でココアを飲んでいる。小さな口をすぼめる仕草が癖になっているようで、一人でいても何度もそのかわいい表情を作る。
彼女は傷ひとつついていない濃いブルーの美しい革の小さなボストンバックからiPhoneを取り出し、イヤホンをつけて音楽を聴き始めた。
椅子には、襟元にファーのついた、上質なベージュのウールのコートがかかっている。
足元はジッパーを上げて履くタイプの、筒幅が細いブーツ。ふくらはぎの太い私が決して履けないブーツ。
こんな完璧に見える女の子を見ると、ときどき思う。私がもし、こんな女の子だったら、何か変わっていたのだろうか。私の1時間が、あなたの1時間になったのだろうか。
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地下鉄の風が入ってくる神保町の階段、東京に大雪が降った日の喫茶店という背景が、描写されている彼女たちをより魅力的に見せている。「軽そうで上等なウールのグレーのコート」、銀髪の女性が持つトートバック、「傷ひとつついていない濃いブルーの美しい革の小さなボストンバック」。素敵な人の面影を想起させる「物」を雨宮まみと私は共有している。コートが「軽い」ことが、若い女の子が持っている小さな革のバックに「傷ひとつないこと」がどんなに大切か、雨宮まみも私も知っているのだ。ファッション雑誌のグラビア写真を眺めている時と同じような気分。つかの間、日常から離れて想像する。境遇さえ違っていたら本当は自分だったかもしれない人生を。いつかそうなるかもしれない生活を思い浮かべてみる。雨宮まみの文章を読む気持ち良さは、そんなところにある。
何て田舎者なんだと笑われてしまうかもしれない。着ている服や、持っている物、容姿によってその人の価値をはかるなんて、なんて薄っぺらな見方なんだと非難されてしまうかもしれない。でも、私も雨宮まみも、ファッション雑誌で教わってしまったのだ。何を持っているかに(選ぶか)その人が現れます、上質な暮らしが美しさにつながります、と。選ぶ目ばかり肥えてしまって、中途半端な物なら無い方がましだとまで思うようになってしまった私たちなのだ。結局、全て物を買うという事につながる幻なのだけれど。今は何も持っていなくても、素敵な人や物を見つけ出す力だけは持っている、そう思っている女の子、雨宮まみのなかに、同じように思っている自分を見る。
「おびただしい数のものの山の中を、片っ端から見て回り、アイデアの盗用や猿真似や妥協の産物に吐き気をもようしながら、光り輝く本物を見つけ出すこと」が彼女の東京での暮らしになる。そして、それを実現するには多額のお金が必要となるのだ。仕事で成功して普通の勤め人とはケタが違う報酬を得るか、代々受け継ぐ多額の財産がある家に生まれる事でしか実現できない。様々なメディアによって思春期から培ってきた「物を見る眼」がどんなにあっても、お金が無ければ手に入れることができない。実際には「冬は寒くてたまらない古臭いタイル貼りのお風呂場でタイ王室御用達のジャスミンの香り高いシャンプーで髪を洗う」ことや、「家賃よりも高い服を買って、自宅で洗うことのできないそれらの服を時にお金がなくてクリーニングに出すこともままならないという生活」を送る事になる。彼女の確かな眼は、自分の暮らしに対してもこんな厳しい眼差しを向けることになる。『40歳がくる!』とは、「女子でいる」猶予が切れて、いよいよ現実に向き合わなければならない期限が迫ったという事なのだった。
そして、彼女は生き続けることができなかった。
『40歳がくる!』の中に収録されている15本のエッセイの中で、やはり1番印象に残るのは、ユーミンに会った夜の思い出が綴られている「東京の女王」だ。ユーミンに会った日、静かな住宅街にあるバーでのひと時が、きれいなグラビア写真のように言葉で描かれていている。これからも大人になり切れないで、私は彼女の著作を読むだろう。
雨宮まみの著作を読み返しながらあれこれ考えていた時に、家人が読んで重ねてあった望月ミネタロウの『ちいさこべえ』を何となく手にして読んでみた。『バタアシ金魚』などで有名な望月ミネタロウが、山本周五郎の「ちいさこべ」を漫画にした作品だ。雨宮まみがあんなに嫌っていた、分相応に生きるということが描かれていてびっくりした。
大工の家に生まれた主人公は火事で両親を突然失う。悲しんでいる暇もなく、棟梁を継いで、家業を立て直さなければならなくなる。肉親を亡くして一人ぼっちで生きてきた幼馴染のりつが現れて(小さい時から主人公の事が一途に好きだったのだ)住み込みで家事をして主人公を助ける。自分の境遇に不平や不満を言っている暇もなく、とにかく毎日毎日自分の役目を果たす生活が続く。2度目の火事に見舞われても、くじけずにやるべき仕事を続けるのだ。嘆いても、文句を言っても仕方がないことがある。置かれた境遇の中で生きるという事の確かさに胸を打たれた。
望月ミネタロウの創作で、原作にないエピソードが挟まれる。それは、主人公が学生時代に自分探しで世界を放浪したというエピソードだ。「重要な事は外の世界のどこかにあるんじゃねえかと考えて」旅に出た自分は、「自分が何者かになるのが怖かったんだ。」と語る。そして、今は棟梁として一人前になりたいんだとりつに語るシーンだ。重要な事は外にではなく、自分のそばにあったと主人公が気づいていく場面が、りつが毎日つくってくれるお弁当や、何気なく飾っている花の絵とともに描かれている。買うのではなくて、手で作っていく世界が描かれている。