阪本順治監督の最新作「冬薔薇」が6月3日にロードショウ公開された。予想通りマスコミは冷ややかな対応で、話題になることもなく、もう、地方の映画館での上演しかなくなってしまったけれど、この映画について書いておきたいと思う。時々、思い出しては考える、そんな映画だからだ。
伊藤健太郎の復帰作の依頼を受けた阪本監督が、彼を主人公にオリジナル脚本を書いた。「ファンの前に伊藤君を無事にお連れするのが、自分の役目だった」と完成した際のインタビューで阪本監督が話していて心に残った。「映画はスターのアップを見るものだ」という事も彼は度々言っていて、映画は伊藤健太郎のアップから始まり、印象的なアップで終わる。
不祥事があっても彼のファンをやめなかった人たち、彼のファンであり続けた人たちは、完成した映画を見て、きっと嬉しかっただろうなと思う。伊藤健太郎が出ていればうれしい、そう思うファンの存在がどんなに貴重なものか、阪本監督にはわかっているのだ。
伊藤健太郎は、若手俳優として人気が上り坂の時に、交通事故の現場から逃げてしまい、逮捕された。その事件をきっかけに、彼の素行の悪さや、周囲の人に失礼な態度を取っていたエピソードなどが報道され、芸能活動休止に追い込まれたのだった。事件当事者でもない「世間」が、彼を非難する。「掌を返す」ように冷たくなる。もともと、強力な営業力によってお勧めされて彼を好きになった「世間」だから、そんなことになっても仕方がないのだ。
「人気」も「不人気」も本人とは関係のないところでつくられた蜃気楼だ。なのに、その芸能界に君は再び戻ってくるのかい? そんな思いはきっと阪本監督自身にもあったのではないかと思う。
伊藤健太郎のために用意されたシナリオは、心機一転、彼が生まれ変わって再出発という内容ではなかった。映画の主人公と役者はイコールではないけれど、「映画によって生まれ変わらせる」というものではなかったのだ。この作品によって次回作のオファーが殺到するという事には、なりそうにもないと感じた。その点からすれば、伊藤の事務所や伊藤自身にとって、この作品は失敗作だったのかもしれない。しかし、私はそこにリアルなものを感じ、やはり阪本作品はいいなと思ったのだ。
事件を乗り超えたからと言って、急に演技力が増すわけではない。人間に厚みが増すわけでもない。伊藤の魅力は、事件前と同じ、生まれ持ったルックスの良さであり、そのことだけでまず勝負するしかないのが現実だ。阪本が用意した主人公、ルックスの良さだけで世渡りしているいいかげんな主人公を、そのまま演じることが、まず彼の役わりなのだ。あとは、演技力のある役者が物語を成立させてくれる。父親役の小林薫、母親役の余貴美子、叔父役の真木蔵人、チンピラ役の永山絢斗が存在感のある演技によって物語に現実感を与えてくれている。そのことを、伊藤自身は理解しただろうか、できない役を欲しがったりせずに、自分の姿を見るだけでいいと言ってくれるファンを大事にしながら映画の世界で粘り強く仕事していこうと思うようになっただろうか。チンピラ役を魅力的に演じた永山絢斗のように、もって生まれた肉体の魅力を活かしながら、自分とは全く違う人格を演技によって存在させる、そんな役者になっていってほしいと思う。
映画は、伊藤健太郎が実生活で経験したように、ちょっとした行き違いによって引き起こされる不幸とその取り返しのつかなさを描いてせつない。「そうであっても、なお」という思いが冬に咲く薔薇、冬薔薇(ふゆそうび)というタイトルに込められているのだろう。この作品によって芸能界に戻ってきた伊藤健太郎に贈られる励ましであり、寄せる希望でもあると思う。