お盆休みにふらりと寄った池袋西武の別館で、古本まつりが開催されていた。時間に余裕があって良かったと思いながら覗いてみた。個性的な古書店がいくつか集まっていて、児童書や雑誌、サブカルチャーの分野の本も多く並んでいて、こんなのあったねと懐かしく思う本や書評が心に残っていたけれど現物を見るのは初めてという本もあって(たいてい頭にくるほど高い値段が付けられている)わくわくしながら棚を眺めていった。
実家に持っていく手土産を買いに来たのだから、そうたくさん本を抱えるわけにはいかないと自分に言い聞かせながら見ていくうちに、井田真木子の『フォーカスな人たち』という新潮文庫を見つけた。井田真木子は好きなノンフィクションライターだったけれど、この著作については全く知らなかった、見かけたこともなかった。文庫本なのに透明なカバーがかけられ、きれいな保存状態で、古書店が大切に扱ってきたような感じが本にあって、その点にも魅かれて買うことにしたのだった。「古書と古本 徒然舎」という水色の小さな紙が最後のページに付いていた。古書店の住所は岐阜市美殿町だ。
『フォーカスな人たち』は、雑誌「オール讀物」に連載した記事をまとめて『旬の自画像』として文藝春秋社から出版したのち、文庫化にあたって大幅に加筆し、書名も変えて出版されたものだ。1980年代半ばから90年代初頭までの10年間、バブルと呼ばれた時代に注目され、はやしたてられ、無残に退場し、そして忘れ去られた5人の人たちの肖像が描かれている。
登場するのは黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙。『フォーカス』という写真誌ともども、今ではすっかり忘れ去られた存在だ。いたね、そういう人、という感じだ。ある時期テレビや雑誌でたびたび目にしたけれど、自分には縁が無いと思っていた人たちだ。井田真木子がこんな有名人を取り上げるのか?という違和感も少しあった。しかし、読んでいくうちに「勝手に持ったイメージで決めつけていてごめんなさい」という思いになった。特に黒木香については、イメージが変わってしまった。自分とは縁が無いと思っていた人たちの物語に引きこまれて読んだ。
連載時の担当編集者だった白幡光明が『井田真木子著作撰集2』の巻末付録の対談の中で印象的なことを語っている。「非常に質の高い優れた作品なんですが、あまり売れなかった(笑)。彼女が焦点を当てるところを理解できる人が少なかったんですね」と。また、彼が大宅賞の候補作として『プロレス少女伝説』を初めて読んだ時の衝撃として「私は当時女子プロレスをお遊びぐらいにしか見ていなかったし、興味もなかった。でも井田さんはその中にああいう意味を見出した。すべての人に存在意義はあるというのが彼女の発想の原点でした」と。『フォーカスな人たち』もまさにそんな彼女の姿勢によって書かれ、そのことによって私も黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙と出会いなおすことができたのだと分かった。久しぶりにちゃんとした文章を読んだと思った。
目が覚めるような思いがして、買ったままだった『かくしてバンドは鳴りやまず』(2002年2月/リトルモア)、『十四歳』(1998年5月/講談社)と続けて夢中で読んだ。井田の最後の作品となった『かくしてバンドは鳴りやまず』は、井田が「私の本」と呼ぶほど大切にしているノンフィクション作品とその作者について書いたものだ。『世界の十大小説』のノンフィクション版をという編集者の求めに応じて雑誌『リトルモア』に連載を始め、井田の急逝により3回で未完に終わった。「井田さんが同業の作家たちを素描するために採った方法は極めて特異なもので、それゆえ、これまで誰も書いたことのないタイプのノンフィクション作家論になった。」と未完ながら出版した経緯をリトルモア編集部の中西大輔と大嶺洋子が単行本の冒頭に書いている。第1回の「トルーマン・カポーティとランディ・シルツ」の中に、井田のノンフィクション論とも思える印象的な文章があるので長くなるが引用する。
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ともあれ、勉強ができなかったシルツとカポーティは、訓練によって能力不足を補った。
そして、聞いたことを正確な文章にして表せるようになったのだ。
実は、この訓練こそ、事実の理不尽さと対決するのに不可欠なものだ。
見聞きした〈なにものか〉を自分の五感を通して文字という動かない形におさめてみたとき、初めてそこに、人間の想像力を超えた事実が姿をあらわす。
やわな想像力など軽々と凌駕する事実をとらえるために、よく聞き、よく見て、忠実に書く。その作業なしには、事実は、ただ抽象的なものに留まるだけだ。事実の本性―とてつもない野蛮さーは、ただ見て、聞いて、書き取ることでしか補足できない。
そして野蛮な事実とわたりあうことで、作家の『私』や『僕』は、その野蛮さを自分のものにする。カポーティもシルツも、とても野蛮な作家だ。物事をあからさまに、無遠慮に身も蓋もなく書いていく。その野蛮さはパフォーマンスによって得られたものではなく、彼らが事実と格闘を続けているうちに、自然に身についたものだ。それが結果的には読者の『私』や『僕』も目覚めさせ、野蛮な読者、身も蓋もない事実を貪り読む人々を生産することになるのである。
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井田真木子は寝食を忘れて、身を削るように書いていたと、複数の人が回想している。彼女も野蛮な作家となり得たのだろうか。また、彼女の作品を読むということは、身も蓋もない事実を貪り読むという域にまで達したのだろうか。2001年に44歳で急逝した後、今では彼女の著作はすべて絶版になっているという。
そんな事情を知らずに彼女の著作の在庫を求めてジュンク堂池袋本店に行ってみたら、『井田真木子著作撰集1』(2014年7月/里山社)が店頭にあった。出版当時は手が出なかった本だ。10年近く経って再び手に取った今、こんなに丁寧につくられた本だったのかと感動した。ビートルズのベスト盤のように、著作撰集1の表紙が赤で、2の表紙が青だ。それぞれ深みのあるいい色が選んである。持ち歩いて何度も読み返す人のために、やわらかい表紙に透明ビニールのカバーが外れないようにしっかり掛けられている。書名の「井田真木子」の部分は本人の筆跡が採用されている。彼女の姿と重なるかわいらしい味のある字だ。目次をめくると少女のようなおなじみの井田真木子のポートレートが現れる。雑踏のなかで振り返って笑う彼女の頬にえくぼが見える。
いちばん最後に、この撰集を作った里山社の清田麻衣子の文章が掲載されている。思いはあふれるほどだろうが、撰集のページを余分に使ってしまわないように、1ページにまとめられた彼女の井田真木子論が胸を打つ。深い理解者によって、井田真木子の本は、後の世代に手渡していけるようになったのだ。