弟とアンドロイドと僕

若松恵子

阪本順治監督の新作映画「弟とアンドロイドと僕」が、1月7日からロードショウ公開された。阪本作品が好きで、新作を楽しみにしてきたが、不意打ちの公開だった。

豊川悦司を主人公に迎えたこの作品が撮影されたのは2019年6月、コロナの影響などで公開まで時間が掛かってしまったようだ。コロナ禍の前に構想された映画ではあるけれど、公開が遅れたことでむしろ、コロナが蔓延する閉塞的な時代に重なる映画になってしまった。「どうやって宣伝したらいいんだ」そんな声が聞こえてきそうだ。ロードショウも2館のみの上映だし、映画のパンフレットも作られていなかった。

「他者と関わりを持てない不安、自分が固い殻に覆われている感覚のようなものは、実は従来のフイルムにも部分的には滲んでいた気がします。でも今回は、その自問自答をあえて映画の軸に据えて、ある種の奇譚、怪異譚に仕立てられないかなと考えた。ある意味、これまでなかったほど私小説的なアプローチに徹した作品だと思います」阪本監督の横顔の写真のそばにそんな言葉が書かれて映画館の壁に掛かっていた。

「奇譚」というのはぴったりだな。私的にいびつで、でも忘れられない印象を残す映画だった。

自分そっくりのアンドロイドをつくる孤独なロボット工学者が主人公だ。彼がアンドロイドを作る目的は明らかにされていない。何かをさせようとしてアンドロイドを作っているわけではなさそうだ。自分にぴったりの友達を求めてのことではないか、いや、そんなセンチメンタルな理由ではなくて、単なる探求心、どこまで人間そっくりに作ることができるか、科学者の力試しなのかもしれない。いずれにせよアンドロイドの制作に夢中になることで、彼は自分の生を支えている。

いつも雨が降っている。古い映画のフイルムの傷のように降りかかる雨の中、傘をささずにレインコートで濡れている豊川悦司がかっこいい。フードをすっぽりかぶり、護送される犯人にも似て。「どこもかしこも雨が降っている『ありえない』状況を見せることで、『リアリティの観点で見るべきではない』というこの映画の見方を示唆するものになればと。」とキネマ旬報のインタビューで阪本監督は語っている。いつも降っている雨、この映画をおとぎ話のように感じさせる理由が、こんなところにもある。

ひとり満足がいくまでアンドロイドを作っていたいのに、主人公の生活に様々な闖入者が登場して仕事は邪魔されてしまう。生きていくには誰とも関わらないというわけにはいかないからだ。そもそも人は人から生まれてくるのだから、どうしても逃れられない親という存在がまず決定的にある。異母兄弟の弟が、世俗にまみれた人間の代表として「僕」の生活に暴力的に入り込んでくる。逃れられない人たちによって思わぬ方に転がっていく物語、それがこの奇譚だともいえる。闖入者自身は、人の生活を壊しているなんてちっとも思っていない。そこにある滑稽さ、おかしみも生まれる。

主人公は、時々自分の右足が自分の足と思えなくて、動かせなくなり、動く方の左足でケンケンするという癖を持っている。「脳の欠損によって、右足を自分の体だと認識することができなくて、こういうことが起こるのだ」と解説するおせっかいな医者が出てくるが、主人公にとってはそんな理由など何の役にも立たない。

豊川悦司を見舞う突然のケンケンが何かの象徴として繰り返し描かれる。身体のちょっとした欠陥、人と違っている部分が理由となって、そのことに躓いて人との距離をつくってしまうという事はあるのだろう。他人にとってはどうでも良いような小さなことが、人と打ち解けられない、一生を左右するような躓きとなるのだ。

阪本監督自身も、自分の胸骨が大きくゆがんでいることが子どもの頃からのコンプレックスだったとキネマ旬報のインタビューで語っている。阪本の「他者と関わりを持てない不安、自分が固い殻に覆われている感覚のようなもの」は肉体のこのコンプレックスから生じたものかもしれない。そんなに単純な因果関係ではないだろうけれど。

この映画は、監督自身がずっと持ってきた「のどに刺さった棘」、ずっと抱いてきたその違和感から紡いだ物語だ。私的な物語を映画にしていく事をOKしたキノフィルム、阪本の頭の中にあったイメージを具体化させて見せた美術スタッフ、生きてみせた俳優によって映画にすることがかなった。キネマ旬報のインタビューで「『のどに刺さった棘は抜けたな』と思います。」と阪本監督は語っている。棘が抜けたのは、ずっと抱えてきた個人的なものが薄まることなく映画というフィクションになったからだろう。