作家の色川武大に、特別な親しみを感じている。彼はきっと、出会った人みんなに、そんな思いを抱かせてしまう人だったのだろう。『色川武大という生き方』(田畑書店編集部編/2021年3月)は、彼の全集の月報をまとめた本で、32人の心の中に居る色川武大と会える本である。
最初の1篇、大原富枝の「たぐい稀なやさしい人」は、みごとなラブレターだ。これからは、純文学(自分の書きたいもの)だけを書いていこうと決心した矢先の色川の死を「わたしの胸をしめつける哀しみ」と大原は書く。けれども、作品の完成はみなかったけれど、彼は「他の人間が生涯かかっても遺せなかったような、妖しいほど透明な文学の美を遺していった。」と大原は続ける。彼が遺した透明な文学とは「一人の男の生涯として、悔いることのない美しい思い出とやさしさを、友人すべての胸に遺してゆくという、なまなかな人間には決して出来ない見事な生涯」そのものの事であると。
奥野健男は、「色川武大の作品は、ぼくがなぜ文学をこんなに好きになったかの根源を改めて思い起させてくれた。」と書いていて心に残る。
色川が『妖しい来客簿』で泉鏡花賞を受賞した際に、同時受賞した津島佑子の回想も胸を打つ。受賞式後の懇親会の席で、太宰治の娘である津島に「おまえの作品は父親を踏みにじっている、思い上がりもはなはだしい」と酔ってからむ相手を色川が魔法のように黙らせてしまったエピソードをひいて、「酒に酔った人を相手に、そのように冷静に、しかも突き放すでもなく、話しかけることができる人を、私は他に知らなかった。そして、今でも知らない。」と津島は書く。その後の、子どもも含めた色川との交流の思い出を語りながら、津島は文章の最後をこうしめくくる。「個人的な、この程度の出会いに、特別な意味など、あろうはずはない。作家について何かを語るのなら、作品のことを語るべきなのだ。そうは思うのだが、同じ時間を偶然、共有し、さりげなくそのまま遠のいていく、ということに、その時間の延長線上に今でもまだ、生きている者として、やはり、特別な思いを持たずにはいられなくなる。」と。
色川が遺して行った思い出そのものが、何より色川の文学であったのだということに私も共感する。重ねて、色川自身の心に遺された、年月を経て蒸留されたもの、思い出が彼の文学であったのだとも思う。多くの人がやり過ごす小さなことに目を留め、多くの人が忘れ去ってしまうささやかなことを忘れずにいる彼のやさしさが、彼の文学であったのだと思う。
私自身は、作品でしか色川武大を知らない。出会いは、『花のさかりは地下道で』だった。この文庫本をふと抜いた、金町駅前の本屋の風景を今でもよく覚えている。大学を卒業して働き始めた年で、私は家から家を訪問する営業の仕事をしていた。題名に自分の境遇を重ねたのかもしれない。
はぐれてしまった者に向けられる温かなまなざし。作者の色川と思われる主人公もまた、何かを求めて街を行きかう人を眺めていた。家族でもなく、愛人でもなく、まして敵でもない、「味方」と呼べる存在。彼は、はぐれてしまった自分を分かってくれる人を街のなかに探していた。「稼いでいるかい?」主人公が路上の仲間である街娼の「アッケラ」にかけるセリフを想像して、心の中で色川さんの声を思い浮かべながら、私も街を歩いたのだった。
色川さんにいっしょに歩いてもらって何とかしのいだあの年からしばらく経った頃、私は旅行で一関に泊まることになった。「色川さんが亡くなった一関だ」と思いながら、夕食のあと、ふらりと入ったゲームセンターで、子ども用のパチンコをして遊んだ。とんでもない大当たりになった。パンドラの箱を開けたみたいにとめどなくジャラジャラと出てくる玉を見て、「色川さんだ」と思った。色川さんからの贈りものに違いないと思った。ガム1枚とも交換できない当たりだったけれど「このくらいの運なら、プレゼントしても運、不運の足し算が狂う事はないだろう?」と色川さんが笑っているような気がした。
子ども用のパチンコをどうしてやってみようと思ったのか、思い出せない。何だか不思議な気がした。そして、うれしかった。どこか遥かなところから送られてきた、温かな色川さんの挨拶だった。