4月にボブ・ディランがやってきた!

若松恵子

春にボブ・ディランが来日した。2020年4月のツアーがコロナで中止になって、もうボブ・ディランの音楽を生で聴くことはできないのではないかと思っていたが、突然のお知らせに大げさに騒ぐ暇もなく、4月になってボブ・ディランがやってきた。

今回は、4月7日から16日まで。大阪3公演、東京5公演、名古屋3公演の計11公演。2020年に8年ぶりに発表されたオリジナルアルバム「ラフ・アンド・ロウディ・ウエイズ」を携えた最新ツアー(2021年~2024年)の一環としての来日だった。

有明にある東京ガーデンシアターで行われた東京公演の初日と最終日に出かけて行った。前回にも増してチケット代は値上がりし、「こんなに払っても聴きたいか?」とディランに試されている気がした(採算の問題なのだろうけれどね)。入り口でスマートフォンを指定の袋に格納させられ(どういうしくみか、パチンと閉めたらテコでも開かない)金属探知機を体に当てられ、手荷物検査をして双眼鏡が没収された。「歴史上の人物、ボブ・ディランを見た」と自慢したい人の出鼻をくじく対応なのである。こんなめんどうな作業をさせちゃって、さすがボブ・ディランだなと愉快になった。こんな対応をしているにも関わらず、さっそく隠し撮りされた日本公演のライブ映像や音源が配信されていて、ファンの根性もたいしたものだとうれしくなったりもするのだけれど。

ステージは薄暗く、中央に置かれた小さなグランドピアノを弾きながらディランは歌う。ギターを抱えてハーモニカを吹くディランのイメージから更新できていなかった人には、誰がディランかすぐには分からない。「風に吹かれて」も「ライク・ア・ローリングストーン」も「フォーエバー・ヤング」もやらない。かつてのヒット曲を期待して行った人には、知らない曲だらけで退屈だったのではないかと思う。知っている曲についても、ただいま現在のアレンジで演奏されているので、今日のディランに興味を持てないとちっとも面白くないだろう。

ディランが「うた」のなかから見出したリフレインをピアノで弾く。時に調子っぱずれでバンドのアンサンブルを壊しかねない突然のフレーズに、バンドメンバーが答えつつ演奏を展開していく。メンバーも手練れのバンドマンなのである。譜面通りでない一夜限りの演奏がうまくいったら、それこそがツアーを回るやりがいというものではないかという演奏なのだ。客もうまくいった演奏を聴いてうれしい。演者とともにその喜びをノリとして共有できる幸せ。81歳になった今も、予定調和ではなく、夜ごと新鮮に音楽を作り続けている姿に、ディランファンの多くは心惹かれているのではないかと思う。客の期待通りにやらないディランはガーデンシアターを満席にすることができなかったけれど。

ディランの熱心なファンからも信頼されている、みうらじゅんが、ラジオ番組で来日公演について話していて共感した。みうらじゅんは、「英語がわからないのに、なぜこんなに面白いと感じるのだろう。そのひとひとりの全てが歌われているからなんじゃないか」と言っていた。「英語の歌詞をなんにも理解せず、時々聞こえてくる単語、たとえば“キーウエスト”にしびれてる自分に、すごくない?と思う」と。ディランの「キーウエスト」に、私もしびれる。「キーウエスト」と歌われる1語に込められているディランというひとひとりの全て。

蜂飼耳の書評集『朝毎読』を読んでいて出会った印象的な文章を思い出す。
「いつ、だれが書いたのか、名前があってもなくても、どこかのだれかが書いた言葉や伝えた言葉が、読むこと、受け取ることを通して、身体を通過していく。抜けていき、忘れてしまうこともある。というより、むしろその方が多い。抜ける途上で、思いがけず身体に残るものが生じる場面もある。それは読書の記憶、痕跡となる。数えきれない記憶や痕跡が地層を成していく。この景観は、外側からはほとんど見えない。その人だけが知る精神的な地層だ。人が人と出会うときには、知らず知らずのうちに、さまざまな意味において、この精神的な地層を見せ合うものだ。心の中にある道や谷や崖、言葉の蓄積が模様を描く地層を、そっと見せ合い、何事かを納得する。読んでも忘れてしまう本や言葉が、そこに計り知れないほど含まれていることは不思議だ。覚えていることだけが重要なのではない。忘れてしまい、もはや復元できない経験は、覚えている事柄と同じくらい大切でかけがえがない。これは、ある程度大人にならないと気づかないことかもしれない。子どものあいだは、覚えなければいけないことがあり過ぎるから。」
「言葉」を「音楽」に置き換えて、この文章を読むこともできるだろう。演奏によって垣間見えるディランの地層は、とんでもなく深い。