生きる哲学

若松恵子

若松英輔著『生きる哲学』(文春新書/2014年)を味わいながら読んだ。あとがきで著者が「本書の執筆は、小品ながら書き手としての私に、きわめて大きな示唆を与えてくれた。」と述べているように、新書ではあるが、重い著作である。

この本は1年にわたって『文学界』に連載されたものをまとめたものだ。須賀敦子、舟越保武、原民喜、神谷美恵子ら14人の人生の軌跡をたどりながら、「彼らによって生きられた哲学」が語られている。

若松英輔にとって「哲学」とは剥製のように静止した概念では無く、「私たちが瞬間を生きるなかでまざまざと感じること」そのものの事だ。著作のはじめで彼は「本書では言語の姿にとらわれない「言葉」をコトバとカタカナで書く」と定義する。そして「私たちが文学に向き合うとき、言語はコトバへの窓になる。絵画を見るときは、色と線、あるいは構図が、コトバへの扉となるだろう。彫刻と対峙するときは形が、コトバとなって迫ってくる。楽器によって奏でられた旋律がコトバの世界へと導いてくれるだろう」と続ける。哲学者の井筒俊彦が「形の定まらない意味の顕れ」を「コトバ」と呼んだことにならって、若松もその意味で「コトバ」を使う。最後の方では「言語的世界の彼方で開花する意味の火花をコトバと呼んできた」とも述べている。

若松英輔が14人を通して繰り返し語るのは、コトバと魂の出逢いについてだ。コトバによって自分自身を見いだす物語についてである。「コトバとの邂逅はいつも魂の出来事である。コトバは常に魂を貫いて訪れる。何者かが魂にふれたとき、人は自らにも魂と呼ぶべき何者かが在ることを知る」ブッダの章で若松はこう語る。

原爆投下後の広島を描いた『夏の花』で有名な原民喜について書かれた章は、渾身の1章だ。『心願の国』の一節が引用される。
「ふと頭上の星空を振り仰いだとたん、無数の星のなかから、たった一つだけ僕の眼に沁み、僕にむかって頷いていてくれる星があったのだ。それはどういう意味なのだろうか、だが、僕には意味を考える前に大きな感動が僕の眼を熱くしてしまったのだ。」
この原の文章を受けて若松はこう続ける。「どうして星が頷くことがあるだろうかと訝るのは易しい。だが、私たちは、彼が記したことをそのまま受け入れることもできる。愚かである、と人のいうところに至らねば見えてこない真実もある。星の動きを見て彼は、意味を考える前に動かされる。意味は、想念を通過する前に彼に届く、光は、私たちがその意味を考える以前に私たちの魂にふれる」

「光は、私たちがその意味を考える以前に私たちの魂にふれる」この一節を読んだ時に、ずっと気になっていた小林秀雄の文章を想い出した。それは『信じることと知ること』のなかの柳田國男について語られている部分だった。柳田國男が幼い時に、おばあさんを祀っている祠を開けて、そのなかにあったまるい蠟石を見た時に経験した神秘的な体験に触れて、小林は「柳田さんは蠟石のなかに、おばあさんの魂を見た」のだと言い、この話を自分は信じるという。こういう体験を忘れずにいる感受性が、柳田國男の学問の秘密だと言った部分だった。小さな石の祠、中風で寝ていたおばあさんがいつも体をさすっていて、すべすべに美しい玉となっていた蠟石、それを覗きこんでいるうちに昼間に星空を見てしまう少年、ヒヨドリの鳴き声で我に返る瞬間。語られる印象的な体験は、それを読む者の心に直に届いて心を捉える。そんなオカルトな話と信じないか、そういうこともあるかもしれないと信じるか…。私は信じると言い切る小林秀雄に全面的に賛成することにためらいがあったのだが、今回若松英輔の文章を読んで、小林が言う、信じるという事を肯定的に理解することができた。説明のつかないできごとを心に受け入れ、心に刻むという事も時には、人間にとって必要なことなのではないだろうか。

若松英輔が『生きる哲学』で述べているのは、世界を正しく理解する方法についてではない。最後の章で、井筒俊彦の言葉が引用される。「コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の内にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。意味があって、それをコトバで表現するのではなくて、次々に書かれるコトバが意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく。その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに展開する。」

人間が生きることによって世界が創られていく。自然と同じように書かれた書物、絵、音楽、彫刻、人そのものも「読まれ」「書かれる」ことによって存在する。若松英輔は、14人の人生(カオス)をコトバに置き換えながら、読む者の心にしっかりと存在させた。この本を書く事、また読む事も、若松言う所の「生きた哲学」であるのだろう。