アントニオーニの映画を読む。もちろんシナリオのことだ。
1950年代終わりごろ、テレビの時代ははじまっていた。しかし映画こそが娯楽であり文化だった。さまざまな雑誌(「映画芸術」、「映画批評」)が生まれ、親しまれたのだろう(演劇や実験的パフォーマンスなども紹介されていた)。そこには必ず特集された映画のシナリオが含まれていた。それがどうやって作られたか容易に想像がつく。おそらく映画配給会社から提供された日本語字幕に編集者が状況説明を加えるのだろう。
シナリオとは「映画・テレビなどの脚本。場面の構成や人物の動き・せりふなどを書き込んだもの。台本。」とある(映画の場合、カメラの位置や角度、音楽の入りなども書かれていることも多い)。それを作るのは脚本家であり監督であるが、監督がその二つの役割を兼ねることも多く、最終的に監督が責任をもってシナリオを仕上げるだろう。最初に書かれたシナリオがそのまま映画になることは稀かもしれない。修正しながら映画は完成し、そしてシナリオは書き換えられていく。
最近の日本映画などはシナリオが販売されることはほとんどないようだが、過去の名作、話題作はシナリオが発売されている。最近では、たとえばカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した韓国のポン・ジュノの「パラサイト」もそのひとつだ。少しまえ授業で使おうと思い、amazonで映画音楽のCDとシナリオ(英語版)を購入した。このシナリオは本として存在しているわけではなく、受注に応じたオンデマンド・ブックで、amazonが独自でやっているようだ。表紙や紙はしっかりしているが、字幕が垂れ流し状態で記されている。登場人物の誰がどこでどんな状況で話しているかは、これだけではわからない。これは英語字幕であり、もはやシナリオとは呼べないだろう。
シナリオとは音楽でいうなら楽譜のようなものだ。厳密なシナリオもあれば即興的なシナリオもあるが、そこから読み取れるものは多い。アントニオーニのシナリオは有名な「不毛の愛」3部作を含む”antonioni four screenplays”(1963)と”Blow-up”(1971)の二冊を持っている。監督自身のインタビューなども含む「確定版(英語版)」といっていいだろう(後者はカメラアングル、カットの切り替えなども詳細に書かれており、オリジナル・スクリプトとの違いも注釈されている)。有名な「夜」の冒頭はこんな風にはじまる。
「ミラノ。正午。高層のピレリ・ビルで窓拭きが仕事をし、そこからかれらは混雑した街のパノラマ的な展望を眺めている。そこにはビルのオフィスから人々がランチに出かけようとしている姿、行き交う人で混み合う歩道で交通案内をする警察官、不機嫌で疲れ切った人々を乗せた車などが見える。」(”Antonioni Four Screenplays”)
一方、「映画芸術」(1962)はこうなっている。
「ミラノの街、車が行き交う。近代的なビルと対照的な古びた建物。カメラ、パンアップするとミラノの市街が一望に見渡せる。立ち並ぶ高層ビル。近代的なアパート。以降ビルの外壁に沿って上から下にエレベーターで下るような感じで、ミラノの街の俯瞰撮影が続き、クレジット・タイトルがダブる。」
このクレジットの場面は窓拭き用のクレーンが降りていくノイズに、背景音楽である電子音楽(ミュジック・コンクレート)が混在していくとても印象的なシーンである。「映画芸術」は画面を見たままのことが見ていない人のために書いてある。一方アントニオーニのシナリオは、見ればわかることを除いて見せたいものだけを説明する。大きな違いは無機質なカメラではなく、窓拭きという人(複数)の視点から見られていることだろう。それを知ったうえで映画を見ることは、状況説明以上の情報を与えてくれる。
シナリオには細部の意図が見え隠れするし、そうした細部が全体に大きな意味を投げかけることもあるだろう。書いてあるがそうは見られない、書かれているがそうはなっていないということも、もちろんある。映画ファンが映画を見るのとは違うが、シナリオの解読は楽譜を読むように映画を読むもうひとつの楽しみだろう。書いてあることをシーン毎に立ち止まりながら確認する。それは謎解きパズルのようで、全体を俯瞰してみたときに新たな発見がある。つまりシナリオへの誘惑は読むこと以上に、見ることへの誘惑であり、意味の糸を張り巡らせるアントニオーニの物語の迷宮に近づく道しるべとなるだろう。