この夏、イスラエルとパレスチナの若者たちが来日するというので、手伝いをすることになった。日本に来て、友達になるのが目的だ。参加した若者たちは、異口同音に「敵だと思っていたが、実は人間だった」と言って最後はハグをする という企画を84歳のおばあさんがたてた。平和のためのラボラトリーというのをうたい文句にしていて、2週間、日本の若者も加わって、広島や、長野、東京で共同生活をするうちに仲良くなっていくというロードムービーのような面白さがある。
しかし、イスラエルとパレスチナの関係はかつてないほど悪化している。今年の死者がヨルダン川西岸のパレスチナ人200人以上、イスラエル人約30人に上り、2005年以来、最悪の水準となっている。そんな状況で、仲良くなるなんて言うのは、実にばかげている。戦争している状態で、敵と仲良くするなんて言うのは裏切り者である。誰とでも仲良くなれたら楽しいが、僕の親友が、僕が大嫌いな連中と、仲良くしていたらもうそいつは親友じゃないってなるので、新しい友達を作るよりは、親友を失いたくない、そう考えると参加者がなかなか集まらないというのもわかる。
今から30年前、1993年9月13日のことを思い出す。「オスロ合意」の調印式がワシントンで行われていた。TV中継を見て、当時普通のサラリーマンだった僕はとても感動していた。イスラエルもパレスチナもよくは知らなかったが、ラビンの演説はよかった。「血も涙ももうたくさんだ。私たちは復讐したいとは思わない」。この老人の迫力。一方のアラファトは、まるで何もなかったかのように、さっと手を差し出し、嫌がるラビン首相の手を強く握って振り回していた。僕は、その時、会社を辞めることを決めて数か月後には中東で暮らすことになっていたので、他人事とは思えなかったのであろう。これから始まる新しい歴史に心は踊っていた。
実際に僕がパレスチナを体現するのは、シリアのパレスチナ難民だった。同僚のパレスチナ人が、自分の”故郷”がいかにパラダイスであるかを毎日話してくれる。その話と、ガッサン・カナファーニーの小説とが混ぜ合わされて、僕はパレスチナに夢中になった。ラビン暗殺のニュースもシリアで知ったが、彼らに言わせると、「ラビンこそがテロリストだ!」と語気を荒げていた。
結局僕がパレスチナについたのは、1997年だった。オスロ賛成派、反対派という議論もあったが、ハマスを強く支持する連中以外は、誰もが2年後にパレスチナという国家ができるものだと信じていた。ガザに飛行場ができて、パレスチナ航空が国際便を飛ばしだしたのだから誰にとってもメリットがあり、意見の違いはあってもパレスチナは後戻りはしない。しからば、和平をぶち壊すのではなく、どう和平にノッていくのか。今でいうSDGs的なノリで、誰一人取り残されることのない和平を考える教育が大切だった。
当時、いろいろな議論があった。イスラエルの教育大臣が左派だったこともあり、敵視教育をどう変えていくのかも政治レベルで議論されていたと思う。ヘブライ大学は、イスラエルとパレスチナの若者たちを引き合わせるプログラムを研究していた。ベツレヘムでは難民キャンプの中学生が、イスラエルの中学生と議論するワークショップを見学した。最初はアイスブレーキングで仲良くなって、その次は、自分たちがつらかったことを話す。パレスチナは、親や親せきが殺されたり、逮捕されたりした体験が必ず出てくる。特に難民キャンプはテロの巣窟とされているから、逮捕者も多い。イスラエル側もテロで、知り合いをなくしたという話もあるが、TVや新聞のニュースで見た程度だったりする。それでも、「パレスチナ人がテロをやるから、逮捕されるんだ」「テロではない、占領と闘っている。正義と闘っている」「占領じゃない、神が与えた土地だから」というお決まりの議論になっていき、泣き出す子どもたちもいた。
僕は、そのあとこのプログラムはどういう仕掛けがあるのか見たかったのだが、別の会議が入っていて最後までいられなかった。こういった平和教育の試みはうまくいかなかったのだろう。結局2000年のインティファーダですべて振出しに戻り、紛争は悪化し、僕はというと2002年にイスラエルから追い出されて、2度と入国はできなくなってしまったのである。名誉のために言っておくが、テロを支援したわけでもなく、パレスチナの医療支援をイスラエルの人権のための医師団と一緒にやっていただけだった。アレンビー橋を渡ろうとして、「あなたはダメよ」その一言だけで、追い返された。あまりにもあっけなかった。こで僕は、パレスチナでの思い出はすべて消去してしまったのである。
2023年8月、イスラエル、パレスチナの若者10名が来日した。20歳から29歳までの若者だ。僕は、最初の広島で、一緒に資料館を見学したが、そのあと彼らは長野で一週間合宿をしていろいろ話したらしい。最後の東京では、3つのチームでそれぞれ平和のメッセージを発表する事になっていた。会場に行くと疲れ切った表情の彼らがやってきた。意見が対立して「平和のメッセージ」をまとめることができなかったらしい。僕が嘗て見た、あの中学生たちと同じような議論になったらしい。「仲良くなってハグする」という目標に達せなかったことに、代表のおばあちゃんは、すごく落ち込んでいた。「このご時世で、無理に仲良くなったって意味ないし、それはそれで、現実を見せつけられたので、意味のある事じゃないですか?」と慰めたが、効果はなかった。一週間たっても残念そうに愚痴っている。僕は、別に仲良くならなくてもいいと思う。嫌いなものは嫌いでいい。嫌いだからいじめてやれとか、殺してやれとかそうのが一番よくない。
オスロ合意の調印式では、やたらクリントン米大統領がかっこつけていたのも印象的だが、そもそもノルウェーが、米ソを出し抜いて、秘密裡にラビンとアラファトを仲介したわけで、ノルウェーの手柄。スピルバーグ監督の「オスロ」では、ノルウェーの森で、イスラエル、パレスチナの交渉団が喧々諤々やりながらお互い理解し、尊敬しあっていく様子が描かれている。それでビートルズの「ノルウェーの森」って、どんな歌詞だったっけ? ジョンレノンの詩は政治的なものも多いが、たわいのないラブソングですらすぽっとはまってしまうことがある。まるで、イスラエルとパレスチナの駆け引きのようなである。女の子は、イスラエル? あるいはパレスチナ?
「ノルウェーの森」
僕は女の子を引っかけた
それとも僕が引っかかったと言うべきか
彼女は僕を部屋に招いた
「素敵なノルウェー調のお部屋でしょ?」彼女は僕に泊まっていくように言い
好きな場所に座るよう促した
部屋を見回したけど
椅子なんて無かった
じゅうたんに腰を下ろし
彼女がくれたワインを飲みながら、”その時” を待っていた。
夜中の2時までしゃべった後、彼女は言ったのさ
「もう寝なきゃ」
彼女は朝に仕事があると言って
笑いだした
僕は仕事は無いと言ったけど
バスルームで寝るはめになった
目を覚ますと、僕は一人
小鳥は逃げてしまった
僕は火を灯す
ノルウェー産の木材は素敵だね?
ということで、まだ日本に残っているイスラエルのルイとアンディは音楽ができるので、ノルウェーの森をみんなで歌おうというコンサートをすることになったのだ。
「9.6ピースセッション」
9月6日 中目黒楽 19:30―
https://www.rakuya.asia/event-details/9-6-peace-session-haishinari