仙台市庁舎の建替工事がいよいよ始まると聞き、8月11日に「解体直前!仙台市役所建築見学ツァー」を開催した。主催は宮城県建築士会仙台支部まちづくり部会と、私たち「宮城県美術館の百年存続を願う市民ネットワーク」。2020年に宮城県美術館の現地存続活動を行い目的を達成した私たちは、会を解散せずに名称を変えて活動を継続している。あのときは全国の方々から会員のお申し込みをいただき、たくさんの署名も頂戴しました。ありがとうございました。
メンバーに建築を仕事にし、建物に関心を抱く者が多いこともあって、“解体”と聞くと何かがムズムズと胸の内で動き出す。長年働いてくれた建物にきちんとあいさつはせねば、とか、あらためてゆっくりと細部を見ておかなければ、とか…。その中には、残そうと思えば残せたのでは…という少しの後悔も入り混じっている。老朽化すると、いまだ直して使うという発想すら持たずに迷わず壊し新しい建物を立てる、何というのか建物への愛着が薄いこの仙台という地方都市で建築文化を育みたいというのが、私たちの共通の思いだ。
仙台市の本庁舎整備室に見学会のお伺いを立てると、拍子抜けするほどあっさりとお許しが出て、祝日なのに庁舎の鍵を開けてもらい、トークのための会場まで用意いただくことになった。
この市庁舎は3代目で、1965(昭和40)年に竣工。設計は山下寿郎設計事務所(現・山下設計)による。仙台は1945(昭和20)年7月10日未明に爆撃を受け、中心部のほとんどを焼失した。昭和20年代後半から仙台市公会堂などが整備されていったが、30年代に入ると現在も残る大きなビルディングが建設され、この仙台市庁舎が整って、戦後の仙台の街の骨格がくっきりと浮かび上がったように思う。
それから60年近く。1989(平成元)年に仙台市が政令市になって区政が敷かれるまでは、市民にとってもさまざまな手続きで出向くなじみ深い庁舎だったわけだが、建替えの話が出たとき、保存を訴える声はどこからも上がらなかったし、私も上げなかった。これまで3回、私は友人たちと解体目前の建物の保存を求める運動を起こしている。結果は3戦3敗。3年前の宮城美術館の現地存続運動が初めての成果なのだった。それは設計者が前川國男というビッグネームだったこと、そして周辺の自然環境を巧みに取り入れたプランに多くの人が深い共感を抱き、私たちの運動を後押ししてくれたことが大きい。では、この市庁舎は? 機能美を供えた好ましい建物だと感じつつも、やはり保存を求める気持ちには至らない。老朽化のせいだろうか? 魅力を捉えきれない自分自身のせいだろうか? 見学会の準備をしながら、自問自答する。
建築士をしているメンバーが、建設にかかわった山下設計の関係者を探し出してきた。
Kさんは96歳。構造設計に携わったという。「もともとは5階建ての計画で進んでいたのを、山下設計の支店長の考えで100尺規制(31メートル)目いっぱい使って、8階建てに変更したんですよ。当時はコンピュータなんてないですからね、そろばんと計算尺とドイツ製のタイガーという手回しの計算機を使ったんです。地震動の数値化されたものも国内にはなくて、米国のデータを使い東大の助けを借りて分析しました。当時の最先端ですよ。実施設計期間はわずか2ヶ月だったから、休みがなくて徹夜の連続、体調を崩したこともあったけど何とかまとめることができました。若かったからできたんでしょうね。現場は2交代制で休みなく働いていた。過酷で病気になる人もいたけど、まぁ、当時は日本中がそんな感じですよ。鉄骨は横須賀の工場で製造したものを船で運んできました。ここは地盤が固くてね、掘削も大変だったんです。地下から水も湧くし。あまりに固くて発破で掘削したこともあります。注意喚起のためにサイレンを鳴らしていたはずです」
うかがった話はまだまだあって書き切れない。
もう1人、Oさんは82歳。大学を卒業して入社するとすぐに市庁舎設計チームに配属されたという。見学会の準備のため、事前に市庁舎に出向いてもらってメンバー4人といっしょに庁内を歩き外観を眺めながら、話をうかがった。建築を生業にするメンバーが驚くのは工期の短さで、「8階建て、3万平米を着工から竣工まで1年7ヶ月でやるなんて信じられない」というのだが、Oさんの話には建築門外漢の私も驚かされた。
「昭和39年の3月に卒業して事務所に入ったんですが、そのときすでに着工されてたんですね。でもね、図面ができていなかったんですよ(笑)。正面の庇は鉄骨が立ち上がってから私がデザインして図面を引いたんです。100尺の高さに8階を収めてるから階高が低くてね、採光もありますけど、視界を開放するために中庭を設けました。でも1階の天井が低いのがずっと気になっていて、やはり今見ても気になるなぁ。そしてこれは「コンクリート打ち放し」ではなくて「コンクリート化粧打ち」。私はコンクリートの匂いが好きでね、型枠をはずすときは必ず現場に出向きました。妻側の壁面のタイルは杜の都をイメージして、あえて緑色のヴァリエーションが出るように窯変タイルを採用しています。そして、前庭も庁舎と一体のものとして整備しました。当時の島野市長が書いています。『都心部において特に不足しがちな新鮮な空気を太陽と緑をいささかでも市民のために取りもどすといったことを考えてこれを造りました』と。庁舎をさえぎらないように、噴水も掘り下げて設置して。私たちは、建築主、仙台市ですね、その後ろにいる市民に応えるために仕事をする、それが山下のモットーなんです」
この時代に“市民のための市庁舎”という明快なコンセプトが立てられていたことに、心を動かされた。そのため当初は、空調も窓口と市民の部屋と市長室にしか整備されなかったという。そしてもうひとつ、Oさんの「コンクリートの匂いが好きで」というひと言も、じんわりと胸にしみた。打ち込まれたコンクリートは熱を帯び、枠をはずすと、型枠の木の匂いも混じり合って、いかにも“生まれた”という実感をもたらすのだそうだ。あくまで固く強靭というイメージしかなかったコンクリートのまるで違う姿を教えてくれるひと言。同じように、現場で昼夜を問わず働いた多くの人が、その人にしかわからない時間と実感を育んでいたのだろうか。その総体がこの建物かと思うと、60年近い建物の生きた時間も重なって、はい、さようならと簡単にはいえないような割り切れない思いにさせられる。
関係者の話を聞くうち、私たちメンバーは口を開けば「いい建物だよ」「気づくのが遅かった」「せめて部材残せないの?」などといいあうようになった。細部のひとつひとつの価値をとらえる眼ができてきたということなのかもしれない。
見学会は午前、午後の2回で60名、そのあとのOさんが登壇してくださったトークには40名が参加。庁内をめぐって解説を重ね、話に耳を傾けるうちに、私たちと同じように建物の魅力に眼を開かれていったようだ。
竣工して58年。こんなふうに設計者の意図や思いを聞きながら、市民がこの建物を見学する機会はあったのだろうか、と考えてみる。もしかするとなかったのかもしれない。解体寸前の建物の見学会にどれほどの意味があるかはわからないけれど、でも確かにこういう機会があってこそ、愛着は生まれてくるものだろう。
Oさんに、「渾身の力を込めて図面を引いた建物が消えていく。そのことにどんな思いがありますか」と聞くと、「社会が変化して役割を終えていくのなら納得がいく。でもただ古くなったから壊すというのはちょっと…」と話された。
仙台の戦後史を振り返ると、新しい建築をつくり新しいことを始めるということが繰り返されてきた印象を受ける。リセットして始める感覚、いわば建物をつぎつぎと消費してきたといってもいいかもしれない。長くつきあいながら傷んだら直し、よみがえらせて新しい価値を創り出す。いまある建物を編集し直しリノベーションして使い続けることを、仙台でやれないものだろうか。東北でもすでに山形や秋田では試みられているというのに。