さて、僕は、久しぶりの海外旅行に胸をときめかせながらも、あまりにも日本に長くいすぎたために旅行の仕方をすっかり忘れてしまっていたのである。最後にヨルダンに行ってから3年もが経過していた。果たして準備ができていないことに不安を覚えながらもともかく旅に出た。
ワルシャワからイスタンブールに到着すると、飛行場には、シリア難民のムハンマッドさんが出迎えてくれた。今回の地震でいくらかお金を集めることができたので、トルコで被災したシリア難民にもお金を渡すことにしたのだ。
ムハンマッドさんは、シリアのダラアで生まれ育った。2011年の内戦は、ダラアの学校の壁に子どもたちが落書きをしたことに腹を立てたアサド政権の警察が子どもたちを連行して暴行したことで一気に広がって行った。ムハンマッドさんは、兄夫婦を失い、残された家族を一手に面倒を見て、今ではイスタンブールで暮らしている。ボランティアなのか、有給なのかはよくわからなかったが、トルコ政府に登録しているという小さなNGOで働いていた。
僕はできたら、トルコの被災地域まで出かけて行って何かしたかった。東日本大震災の時に、多くの人々が感じた「あれ」。つまり、自分が役に立たないっていうことを実感して、「死にたくなる」ような感覚。正確には、「生きていることの意味」を見いだせないという、あの感覚だ。当時の新聞などで、芸能人や芸術家と呼ばれる人たちの多くが、「あれ」のことを語っていた。
今の僕は、世界でどのような悲劇が起ころうが、自分は駆けつけることはない。外からつつましく応援するだけだ、それが年寄りがやる事だと思っていたが、「あれ」がどうしてもモヤモヤと沸き起こってくる。「貧乏な年寄りが行っても足手まといになるだけだ」というまっとうな考え方だけではなくて、僕にはそういうことをする体力も、気力も、財力もないというのが本音であり、トランジットでトルコに行くなら、イスタンブールの人たちがどういう風に、「あれ」を感じて苦しんでいるのか、そこは寄り添いたいなあという気持ちもあり、福島を応援してくれた友人のトルコ人に会いたくなったのだ。それで3月11日にトルコで飛行機を降りる事にしたのである。
トルコにはシリア人のネットワークもあり、いろいろ面倒を見てくれることになった。ともかく、イスタンブールにつくと、ムハンマッドさんが、わざわざ僕の名前を書いたプラカード(日の丸)付をもって迎えに来てくれ、ホテルまで一緒についてきてくれたのだ。
ムハンマッドはほとんど英語が喋れないので、通訳を買って出たアブドラとホテルで合流し、今日はガラタサライの試合の日だったので、僕たち3人はサッカースタジアムに向かった。といってもサッカーの試合を見に行くわけではなかった。確かめたいことがあった。なかなかタクシーが拾えず、途方に暮れていた老婆も一緒に、途中まで送ってあげた。「ここの建物は老朽化しているのよ。私たちの住んでいるところだっていつ壊れるかわからないから、怖くて仕方がない」という。
私たちがガラタサライの本拠地、ネフ・スタジアムについたときは、殆ど試合は終わりかけていた。トルコで最大のスタジアムで5万2000人が収容でき、いつも満席になるという人気のクラブだ。長友佑都も所属していたこともあった。今回の地震では、いち早く救援物資を現地に届けたり募金運動を積極的に行っていた。被災地では、ハタイ・スポルというクラブのクリスチャン・アツという元ガーナ代表選手や、クラブのスタッフ数名も死亡が確認されており、サッカー界も沈鬱な空気が漂っていたという。
この日もスタジアムは満席で、ガラタサライが勝利を収めていた。アブドラに頼んでスタジアムから出てくるファンに地震のこととか聞いてみた。「勝てたのはうれしいが、あまりいい試合じゃなかった。被災地ではサッカー選手も含めて多くの人たちが亡くなっている。我々のチームが、被災地支援を行っていることを誇りに思います!」
アブドラは、シリア難民で大学に通っているが、自分の話をしてくれた。「先日アンタクヤに行ってきたんだ。悲惨だった。僕は大学で勉強しているんだけど、同級生のシリア人だけじゃなくてトルコ人も家族を亡くした。最初の3日はほとんど救援チームもこなかった。4日目になってようやくチームが入ってきた。僕たちは誰でも死ぬ可能性があった。家族たちは天国で合うことができたと思う。安らかに眠ってほしい。」美しくライトアップされたスタジアムから流れ出る人々を見ながら涙ぐんでいた。
サッカーの試合を見るわけでもなくここへ戻ってきたのはそれなりの訳があった。 スタジアムにいる居心地の良さ。ちょうど4年前、最後のイラク出張の2週間は本当に地獄だった。そこで見たものは墓場まで持っていかなければならないような代物だった。もううんざりだった。ユニフォームに着替えてこっそりと一人でホテルを抜け出した。知らない人達と肩を組んで応援した。その時だけは幸せだった。ガラタサライは優勝して、ホテルに戻った僕は、何もなかったようにスーツに着替え、夜中の飛行機にのった。その後2度とイラクに行くことはなかった。
あの時の一体感、今世界はあの時の一体感を必要としているのかもしれなかった。
路傍には屋台が出ていてケバブサンドを売っている。日本で言うのとは違い、ひき肉を固めて焼き、フランスパンにはさんだもので、塩辛いヨーグルトドリンク付きだ。
相変わらず、肉は堅かったが4年前と同じ味がした。