何かが変った日

さとうまき

311、ぐらっとゆれて、何かが大きく変ってしまった気がする。僕は、その時事務所にいた。ゆれはしたが、大事には至らなかった。しかし、それから、一週間は、とてもしんどい日が続く。何がしんどかったかというと、無力感だ。一週間、何もせずにただ、TVやネットで原発が放射能を出し続けるのを見て、悶々としていた。東京でもガソリンがなくなり、灯油がない。米や、パンがなくなった。そして、オムツがなくなる。放射能のこともあり、1歳9ヶ月の息子は札幌の妻の実家に帰した。

そして僕は、先週から、山形に来ている。毎日、石巻や、女川町へ支援物質を届けている。最初は怖かった。自分が一体どんな面を下げて、被災者に会いに行くのだろう。邪魔なだけじゃないか? かえって迷惑をかけるんじゃないか。そう思うと無力感にさいなまれた。

被災地に入る。すべて流された町の風景。今までいくつかの戦場を見てきたけど、比べ物にならないエネルギーである。原爆で破壊されたグラウンドゼロに似た光景。自衛隊の車両があちこちを走り、まるで、軍事占領下に置かれたような街角。自衛隊員の仕事は、瓦礫の中から遺体を収容すること。いまだに一万人が行方不明だという。

しかし、避難所で出合った人びとは、とても優しい。南三陸の丘の上に避難してきた人達は自炊していた。100人が狭い公民館で暮らしている。「ご飯を食べていきなさい」先に被災地に入っていた熊五郎は、避難民の炊き出しを食べるなんて、とんでもないと思っていた。しかし、ここはイラク流でいい。同じ釜の飯を食うこと。外は寒く、温かい味噌汁がおいしくて涙が出そうだ。

ヒゲのおじさんは、「2歳になる孫が、保育園にあずけられていたので、娘が車で迎えに行った。それっきり戻ってこなかった。娘の遺体は確認できて、昨夜仮通夜を行ったんだ。2歳の孫はまだみつからねぇ。見つかるまで、ヒゲはそらねぇ」と泣き出しそうだ。

医者を連れて、別の避難所で診察をした。おばあさんが多くやってきて、嬉しそうに苦労話をしてくれて、僕らも気が楽になった。しかし、マスクをつけた女性が目を赤くはらしている。花粉症かなとおもったが、涙があふれ出ている。「3歳の息子が、流されて、戻ってこないんです。もう諦めています。20日近くたつんですから。でも遺体を見ない限り諦められないんです。」僕だったら、ぐしゃぐしゃになった、子どもの遺体をみるよりは、諦めながらも、かすかな希望を持ち続けてるほうが楽じゃないかと思ったりする。

まだ、20歳くらいの漁師の若者は携帯電話の待ちうけの赤ちゃんの写真を見せてくれた。「ここから逃げて、かみさんの実家に世話になっています。この間、久しぶりに会いに行ったら、僕のこと忘れていて、泣くんですよ」ちょっと悲しそうだった。「赤ちゃんにとっても津波は怖かったみたいで、いままで夜鳴きなんかしなかったのに。」
「大丈夫ですよ。子どもは元気に育ちますよ」僕は、自分の息子の写真を見せた。
「一年と9ヶ月でこんなにおおきくなるんですよ。あっという間ですよ」

僕も、息子と別れて20日になる。僕のこと忘れてしまったんじゃないかと思うと少しさびしい。しかし、子を亡くした親の気持ちを考えると、もっと悲しくなる。早く、この苦しみをみんなが乗り越えて欲しい。