5年ぶりのバスラ

さとうまき

5月3日、日本を出発した。久しぶりにイラクのバスラにいけることになったのだ。「第一回バスラ国際がん学会」に招待されたのだ。とは言うものの、バスラの治安は決してよくなったわけではない。「危ないから今は来ちゃいけない」とローカルスタッフのイブラヒムは警告を発してくれていたが、ドクターたちは、「大丈夫だ。護衛をつけて迎えにいく」という。「でもなあ、人質になって、身代金を請求されたらどうしよう」なかなか判断がつかなかったのだが、ともかくイラクの保健省が招待してくれるというのだ。

5年ぶりにバスラに行くのだからどうしても気分が高まる。あれもしよう、これもしようとリストがあっという間に埋まっていく。とは言うもの、できるだけ目立たないようにと服装などにも気をつかった。そこで、黒いシャツに金糸の唐草模様のはいった赤いネクタイに、スーツといういでたち。「それ、派手じゃないですか?」と同行した日本人から言われるが、実際、学会会場には、同じようなカッコウをしている、イラク人がたくさんいたのには、皆、驚いていたようだ。

我々は、クウェートに前泊して陸路で、バスラ入りした。クウェートとイラクの国境は閉ざされているとの前情報だった。確かに、一般人がこの国境を越えることはないのだが、物資を取引するトラックが列をなして、その運転手のほとんどが、バングラディシュやらインド人やらで、独特の雰囲気をかもし出している。ここはカシミール高原か?

5月、例年ならすでに、太陽の日差しに串刺しにされ、干からびてしまうような季節であるのだが、今年は、実に心地よい。それにしても国境の活気はなんだろう。路上には、市が立っているのか、あるいはごみが捨ててあるのか、区別ができない。汚さはといったら5年前とまったく同じ。

私たちは、イブラヒムが借りてきたBMWに乗り込み、前をパトカー、後ろは病院の車が護衛してくれる。車は猛スピードで、駆け出したが、パトカーは飛ばしすぎて、私たちの視界から一気に消えてしまった。これで、護衛になっているのか。止まって待ていたパトカーになんとか追いつくと、警官が「わりぃ、わりぃ」と申し訳なさそうに、わびた。イラク軍のチェックポイントがいくつもあり、装甲車が配備されている。4日間の滞在中、車を降りて外を歩くことは一切許されなかったので、写した写真は、装甲車ばかり。まさに、戦時下だ。

がん病院を少しだけ訪問することができた。イブラヒムが、サブリーンという目のがんの女の子を連れてきてくれた。とても、面白い絵を描く少女だが、病院に来るお金もないので、奨学金として毎月150ドルを支給している。助かる見込みは薄いといわれ続けたが、何とか4年間闘病生活を続けている。先日はイランへつれて行き放射線治療を受けさせた。4年間、写真やビデオでしか彼女の様子を知ることができなかったが、目の前に立っていた彼女をみると、ジーンときた。生きていることの素晴らしさだ。私は、しばらく言葉を失った。

翌日、学会で、子どもたちが歌うという。残念ながらサブリーンは、まだ体調が万全ではなかったので、会場には姿を見せなかった。大体、イラクの子どもは、音痴が多い。というのも音楽の授業らしきものがあまりないのだと思う。鼻歌程度。わざと1/4音を使ったりするので余計音痴に聞こえるのかもしれない。それで、イブラヒムが、子どもたちに毎日歌を教えているというので、へーと思ったのだ。イブラヒムこそが、音痴なのだ。どうやって教えているのだろう。10人ほどの現在がんが治ったと思われる子どもたちが、会場に現れた。ステージは5時間後だというのに、ロビーで何度も練習をしているのだ。ちゃんと音楽の先生が派遣されていたのである。

    希望のかけら

  この場所から、私たちは言います。
  皆様、ありがとう。
  今日、私たちの希望が、戻ってきました。
  そして、求めていたものが、実現したのです。
  愛と薬で
  治ったのです。
  忍耐と信念で
  私たちは、勝利者として、がんをうちまかしました。

  希望の窓を、私たちは開けたのです。
  未来への足がかりを、私たちは、始めたのです。

  私たちは、歌うのです。最良の希望のために
             新しい世界のために
             幸せな日々のために

  もう、落ち込んだりいらいらしません
  人生の信念の無駄はないのです。
  私たちは希望でいっぱいで、幸せでいっぱい。
  そのことを皆さんに伝えたいのです!

なんとも、子どもたちのステージは、力がいっぱいあふれていたのだ。歌もうまかったし、さぞかし大変な練習だったんだろう。その一方で、助からなかった子どもたちがたくさんいるし、この小さな子どもたちも、いつか再発するかも知れない。でも、よくがんばったなあと。
 
セキュリティのこともあり、五つ星のホテルを期待したが、5年前に泊まったぼろホテルで、5年間もぼろホテルのままだったようだ。バルコニーの扉は壊れて鍵はかからず、砂塵が入ってくる。これで、テロリストが入ってきたらどうするんだ。停電がしょっちゅう。自家発電に切り替わったりすると冷房が効かない。最初、冷房が壊れているのだとおもって、フロントに直しに来るようにお願いした。「わかった、わかった」といっても、まったく直しにこないから、とうとう私も切れて怒鳴ってしまったのだ。「そう、どならないでくれよ。これがイラクなんだから。一時間後に直しに行きますから」。たしかに、これがイラクなんだ。「怒鳴ってもうしわけなかったなあ」と謝ったが、結局、直しには来なかった。これもイラクだ。

私は、学会が終わったら、しばらくバスラを見学しようと、計画を練っていたが、セキュリティを担当しているアメリカのNGOに囚われの身として仲間と一緒の車に乗せられると、今度は軍の装甲車が4台も護衛がつき、完璧に!護られて飛行場まで連れて行かれた。4日間は、まったく自由がなく、息苦しかったし、あれもこれもできなかった。5年前に比べたら、インフラもまったくよくなっていないし、自由もない。これがイラクの日常だ。こんな町には住みたくないという町。それが、バスラだった。それでも、気持ちは高ぶっている。子どもたちが、希望に向けて歩き出したという歌が耳について離れない。