耳の慎ましさ

高橋悠治

子どもの頃ピアノの練習がいやで戸棚の楽譜をみつけてかってに弾いていた曲バルトーク シェーンベルク プロコフィエフ それよりは読んだ本の数行の記述や引用されていた楽譜の断片だが楽譜そのものは手に入らず録音もない想像するしかない音楽の作曲家たちニコライ・ロースラヴェッツ アルトゥール・ルリエ ヨーゼフ・マティアス・ハウアー ベルナルト・ファン・ディーレン その頃はブゾーニ ヴァレーズ ケージもそうだったがまただれかの押入のなかで見つけた楽譜レオ・オルンステイン フェデリーコ・モンポウこんな名前で編み上げた空想の20世紀音楽地図に帰ろうとしながら昨年から今年にかけてフォンテックで録音したブゾーニのソナティネ モンポウの「沈黙の音楽」バルトークの初期の小品コジマ録音から出した石田秀実 戸島美喜夫のピアノ曲集を作りながら考えていたのは1910年代ヨーロッパ音楽の論理は現実とあわなくなって想像力をしばるだけの規則は崩れていったその時は社会が限度を超えて拡大し繁栄そのものが衝突と戦争という自己破壊に向かっていた時期そういう危機の予感と現実化の不安のなかで抑制されていた想像力がはたらきはじめ不安定な足場が逸脱を加速したにはちがいないがそれはまだ過剰に向かっての逸脱にすぎなかったもっと多くもっと速くもっと強くという欲望の増幅にまみれて自分で創りだした混乱に埋もれてゆくかそれがいやならいままでの論理の徹底化をはかる傾向からは自由でなかった

資本主義の世界秩序がふたたびゆるんでいるいまかいま見る音楽の多様性と言っても多様式や折衷ではなく相対主義でもなく異質なものそれぞれのかってなうごきのなかで必要に応じて一時的に関係をつくり協同作業をする統一する理論も方法もなくそのときその場で使えるやりかたでつくる音の出逢いというよりは消える響きについてゆく行く先は見えないここでない場所いまでない時薄闇と薄明かり石田秀実が『気のコスモロジー』(2004)で書いている山水画のなかの曲がりくねった杣道や井上充夫『日本建築の空間』(1971)で回遊式庭園や数寄屋風書院造りについて読み音は音の記憶にすぎないゆえにここにいない人びとを忘れないために音楽がありまたいっしょになにかをすることができる場の空間ここにはまだない社会の夢のためにも音楽はあることを思い出しながら木立に隠された建物が見え隠れするまばらにあちこちを向いてすぎてゆくすこしずつ変わる色合い木漏れ日の道を辿る足の裏でたしかめつつ答えの見つからないまま足の裏で問いかける空間は時間に翻訳され全体は消えて前後のちがいだけが残り直前の位置のちがいだけに付けながら打ち越しに観音開きになることなく転じつづけて残す屈折する動線それ以上の規則のない連句そのままくりかえされることもなくまったく変わることもなくそれでもいったん変わったら二度ともどることはない流れどこからともなく現れどこにも辿り着かずに消えてゆく砂漠の川

全体の展望がある音楽は構成を決めるまでに時間がかかるがその後は途中で考えを変える余裕をあたえず一気に作りあげるのに対して響きについてゆく音楽は入口が決まればそこから回廊のように蔓草のように時間をかけて伸びてゆきなにかに出会うとそれを避けて周囲を回転しながらそのものになじんでゆくすこしつづけては作業を休んでしばらく時間を置いてからもどったときには響きの感触が変わってそこまで持ち続けて来た記憶の惰性が失われ冷めた状態になっているそこから再開すると彩りはむらになり予測とはちがう方向にずれてゆく逸脱と言っても近代のあるいは啓蒙主義のもっていた論理の徹底化や対立や競合の強調によって過剰増幅加速に向かうのではなくわずかなものたちがあいまいに漂う空洞の空白のゆるやかな時間の内側できこえる音そのものではなくその周囲の沈黙ですらなくそこにはないがその彼方に微かな感触を残している不安定な短い波の一瞬の断面実現しなかった可能性の幻は視角によってさまざまに映るにしても協同作業のなかで一歩ごとにそこから眼を離さずにいることがどうしたらできるのだろうとは言え直接見つめることはできないそれは見るものを石に変えるゴルゴンのたとえのように鏡像としてとらえるかいやそれさえできない残像か周辺視のなかにしかない虚像として感じられるもの論理や方法ではなく関数や方程式でもなく分布や密度のように特徴があるものでもない異次元の何かがすぎていった軌跡の余韻の漣を書くことも描くことも指すこともせずにそばだてた耳に悟らせる気配ベンヤミンの歴史の天使は過去の断片をひろいあげる楽園から吹きつける進歩の風は止んでいるもがれた翼はもう拡げられることもなく閉じることもできない谷間に