人類が現代人のような言葉をしゃべり始めたのはわずか7〜10万年前。そして、人間がチンパンジーとの共通祖先から分かれ、独自の進化の道を歩み始めたのは700万年前です。つまり、進化の過程のうちほとんどの時期は言葉を使っていませんでした。言葉は脳を大きくした原因ではなくて、結果だったのです。 山極寿一
(山極寿一『老いの思考法』文藝春秋)
山極寿一は霊長類学者・人類学者。元京都大学総長。京都大学の伊谷純一郎のもとでサルやゴリラの研究をはじめ、40年に渡る霊長類の研究を通して、人間とは何なのか、どこから来てどこにゆくのかを探求。サルや類人猿の生態観察から、人類のルーツがどこにあり、なにが人間を根源的に特徴づけるものなのか、700万年の進化史を通して、人間の本質を明らかにしようとしている。
「進化の過程を遡れば、人間は長らく生身の身体の共鳴を大事にする社会を形作ってきたのです。人が言葉を話すはるか以前から、音楽があり、踊る身体が発達しました」(山極寿一『老いの思考法』)
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人類の言語史の、ごく新しい時代に文字と書きことばが生れ、それを管理するための文法と言語エリート層が形成された。フリッツ・マウトナーが言うように、文法が生れる以前は、だれも文法の誤りなど犯さなかったのである。文字のもたらした言語知識の独占に対し、言語学を含めて近代の精神は解放へのみちを模索してきた。その精神とは、なるべく少ない知識と、わずかな約束ごとによって、すべての人が読み書きの世界に参与できるように、自由な言語活動への土台を保障しようというものであった。明治以来、日本も基本的にはこのみちをはずれることはなかった。我々はいまになって、この歯車の逆さまわりを許してはならないのである。 田中克彦
(田中克彦『ことばの自由をもとめて』福武文庫)
田中克彦は言語学者。中国とロシアというふたつの大国にはさまれたモンゴルを研究する中で、言語学へと活動の幅を広げた。「正しい文法」や「単語の知識の管理人」に対して、言語学のゆたかな知識を駆使しながら、民衆のもつことばのいきいきとした働きを擁護しつづけている。
「ことばのものしりのためにおどしつけられ、ものも言えなくされてしまった人間のためにこそ、ゲンゴガクだの科学だのが役立たねばならない」「美しいことば、力強いことばは、苦労してやっと字引きの中からさがし出して来るものではなく、いじけぬ、きがねのない言語活動の中から生まれてくるものである」(田中克彦『ことばの差別』農山漁村文化協会)
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森羅万象のうち、じつは本名をもたないもののほうがはるかに多く、辞書にのっている単語を辞書の意味どおりに使っただけでは、たかの知れた自分ひとりの気もちを正直に記述することすらできはしない、というわかりきった事実を、私たちはいったい、どうして忘れられたのだろう。本当は、人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だったのに。 佐藤信夫
(佐藤信夫『レトリック感覚』講談社)
佐藤信夫(1932〜1993)は言語哲学者。元国学院大学教授。佐藤の一連の「レトリック」に関する著作を読んだときの驚きは、今でも忘れがたい。彼の本が出るまでは、レトリックとは「口先だけの美辞麗句やごまかし。また、誇張した表現」(『現代国語例解辞典〔第三版〕』小学館、2001)と一般的には思われてきたし、今でもそう考えている人が多いのではないだろうか。
ところが、佐藤によれば、レトリックは古代から《説得する表現の技術》であり《芸術的表現の技術》であったし、さらに《発見的認識の造形》でもあるという。
「言語は、技術的苦労なしに、すなおに正直に忠実にものごとを記述しうる道具である、という恐るべきうそ」(『レトリック感覚』)を私たちは信じ込んでいたがゆえに、レトリックのもつゆたかな意味と必要性を忘れていたのだ。