最寄り駅から自宅までゆっくりと歩く。十五分ほどの距離なので自転車に乗ることもあまりない。コロナ禍になって仕事の後に飲みに行くことも減り、場合によっては週の半分ほどは自宅でオンラインでの仕事になることもある。どうしたって運動不足になりがちなので、駅まで十五分程度は歩いたがいい。そう思い駅からの帰り道は時々普段と違う道を歩いて遠回りをする。出勤時にも違う道を歩こうとして、道に迷い遅刻しかけたことがあるので、この密かな遊びは帰宅時だけと決めている。
最寄り駅から自宅まで、最短のルートは駅前から延びている国道を歩き、そのままY字路を県道へと折れるルートだ。しかし、県道へと折れずに、そのまま国道を歩くと市が管理している自然公園にたどり着く。この公園の中を通って帰るルートが最近のお気に入りだ。
少し遠回りになるので二十分から二十五分ほどかかるのだけれど、自然公園の遊歩道は左右にきれいな花が咲いているので気持ちがほんの少し晴れるようで気に入っている。
その日も、自然公園を通って帰宅していたのだが、少し気温が低く初秋だというのに冬の気配が濃かった。ショルダーバッグをかけ直して、ズボンのポケットに手を突っ込むと少し歩く速度をあげた。足元にはポプラやイチョウの黄色い落ち葉が風に踊っていて、それを踏むと心地よい渇いた音がした。
背の高い木々がアーチのようになった遊歩道を抜けたところに、小さな池があるのだが、その脇にコスモスばかりが植えられている花壇の一画があった。薄紅のコスモスが一斉に風にゆらされている風景は、日々の仕事への愚痴を噛みしめている下っ腹のあたりの嫌な力こぶのようなものを霧散させてくれる。
しかし、今日は妙な違和感があった。昨日とは明らかに風景が違うのだ。まるっきり違うのではなくなんとなく違う。目を凝らしていると、昨日との違いに気がついた。コスモスの花の数が少ないのだ。半分ほどの花が根元に落ちている。畳二枚ほどの花壇なので、半分とするとどのくらいの花がなくなったのだろう。自然に落ちたのかと思い、近寄ってみたのだが、落ちている花はどれも茎がついていて、明らかに誰かが花を落としたように見える。おそらく、傘かなにか棒状のものを振り故意に落としたのだろう。落ちている花はどれもまだ生き残っている花と同じようにきれいで、落とされてまだ時間が経っていないことを教えてくれる。
ときどき、コスモスの花壇を振り返りながら、先に進むとベンチがあった。いつもは誰も座っていないのだが、初老の男性が座っている。まだ季節的には少し早い気がする冬物のコートの衿を立て、いかにも寒そうに座っている。まるで、その男性の周囲だけ一足先に真冬になったような印象だ。
その前を過ぎようとした時、男性の脇にビニール傘が立てかけてあるのが見えた。なんとなく反射的に、男性の隣に腰を下ろす。男性はいぶかしげにこちらを見る。他にもベンチがたくさんあって、そこには誰も座っていないのだから、当然の反応だろう。しかし、ビニール傘を見た瞬間に自然に腰を下ろしてしまったのだ。
「寒いですね」
男性のコートの衿を見ながら話しかけてしまう。
「寒いですね。歳を取ると余計に寒い」
男性はそういうと手に持っていた物をいったん膝の上に置いて、右手の平で、左手の甲をさすった。その動きで、男性の膝に置かれていた物が落ちる。それは、はらはらと舞うコスモスの花びらだった。男性の膝の上と、足元にいくつかのコスモスの花びらが落ち、男性は拾うでもなくそれを見ている。
風が吹く。足元の花びらがこちらに吹き寄せられる。男性がコートの衿を引き寄せ肩をすくめる。こちらにやってきた花びらを拾い上げる。薄紅色が少し褪せている。通り過ぎてきたコスモスの花壇を見て、それから視線を男性との間にあるビニール傘に移す。その表面にコスモスの花びらが何枚か貼りついているが、さっきの風でそこに移ったのかどうかはわからない。じっと、その花びらをみていると、男性の手が伸びてきて花びらを払う。払った花びらが宙を舞い、そのうちの一枚が男性の手の甲に乗る。男性はその花びらを指先でつまみ、目の前に持ってきて、誰にともなく少ししゃがれた声で呟く。
「誰がやったのか」
そう言うと男性はつまんでいた花びらを地面に落とし、膝の上の花びらも払い落として立ち上がった。その弾みにビニール傘が倒れ、私の足に当たる。(了)