ゴダールのひこうき雲

植松眞人

 暮れも押し迫った頃になると、家の中が殺気立ってくるので、いろいろと用事を作って外に出ることが多い。殺気立った家の中にいてもろくなことがない。もちろん、家人からすると、この忙しい時に逃げやがったな、ということになるのだけれど。
 いまやらないと間に合わない、という理由をでっち上げて今日も外に出た。実家の最寄り駅近く。都市部まで電車で三十分もあれば着くのに、この空の広さはなんだ、と見上げているとくっきりとしたひこうき雲が見えた。しかも、そのひこうき雲はいままさに空に描かれている最中で、目にはよく見えないのだけれど、先端には飛行機が飛んでいるのだろうと思う。
 ひこうき雲を見ると思い出す映画がある。正確には映画全体を思い出すというよりも、その映画の中にあったひこうき雲を追っているワンカットを思い出すのだ。
 「ゴダール、八十年代映画大陸への帰還」と少し大仰な惹句が付けられたそのポスターは、何度かの引っ越しを繰り返す内になくしてしまったのだけれど、たった一度だけ見た内容は割と細かく覚えている。
 映画を作ることを映画にした『パッション』という作品は、かなりの野心作で緊張感のカットが次から次へと繰り広げられるのだった。しかし、その中に唯一と言えるほど人間味溢れるカットがふいに差し込まれる。それはゴダール自身が撮ったとされるひこうき雲のカットだ。
 撮影中、偶然見かけたひこうき雲に向かってゴダールがカメラを向け、三脚のハンドルを回しながらひこうき雲が伸びる先に向かってレンズを向けたのだろう。そのカットはカクカクと不器用に動き、決してうまいとは言えない出来だ。しかし、ひこうき雲の行く先を見たいという気持ちがダイレクトに伝わってくるという意味では、この映画のなかで最も魅力的なカットと言える。
 監督がカメラの揺れよりも、そのカットが伝える魅力を重視するなら、そんな揺れるカットを使ってもいいのだということを私はゴダールに教えられた。
 関西の地方都市のローカルな駅前で空を見上げてひこうき雲を追いかけながら、私はゴダールを思い、ゴダールが撮ったひこうき雲を思っていた。
 ゴダールが亡くなって三ヵ月。結局、ゴダールはゴダール以降、映画はこう変わったというお手本とならずに、ずっと異端であり続けた。永遠とも言える瑞々しさを保ったまま、しかも誰も真似できない存在になったゴダール。私にとって、『パッション』のなかのひこうき雲はまさにその象徴なのである。
 不穏で、純粋で、目を見張るくらいに美しいひこうき雲をカットはおそらくほんの数秒しかない。