シベリア帰りの煙草屋

植松眞人

 子どもの頃、よく父に煙草を買いにいかされた。家から煙草屋までは歩いて十分ほどのところにあり、微妙に手間を感じさせる距離であった。うちのぼろ家を出てすぐのところにも以前、煙草屋があったのだがその頃には店は完全に閉じられていて店先に置かれた自動販売機だけが健気に小銭の分だけ押されたボタンの銘柄を吐き出していた。
 しかし、父の銘柄はその自動販売機にはなかった。父が吸っていたわかばは、他の銘柄よりも一割くらい安いのだが、安い分だけ味が悪かったらしい。父はときどきわかばを吸いながら「ピースが吸いたい。ピースはうまいねん」と笑いながら愚痴をこぼしていた。安いけれど不味い。そんなものがどんどん見向きもされなくなっていた時代だった。私が生まれてすぐに最初の東京オリンピックが終わり、二年ほど前に最初の大阪万博も終わっていた。みんなが少しずつ贅沢になり、一億中流と言われ、これからの生活はよくなるという漠然とした夢を持てた時代だった。それでも、わかばを吸っていた父は謙虚で真面目な性格だったのだと思う。
 自動販売機にはないわかばを買うために私はたびたび町角の煙草屋へお使いに行った。毎回ではなかったが、お駄賃代わりに煙草屋の隣にあった駄菓子屋に行くことが許された。お釣りだけでは大したものは買えなかったが、自分のポケットの小銭と合わせると、チロルチョコが森永ミルクチョコレートにグレードアップできた。
 煙草屋はいかにも煙草屋という店構えで、真っ赤な文字で『TOBACCO』と書かれた看板があり、ガラス戸の向こうに看板娘ならぬ看板爺がいた。カートン買いする客か万札を使う客以外は店の脇に設置された自動販売機を使うので、爺さんの出番はそれほどない。しかし、この店の自動販売機にもわかばはなく、どうしてもガラス戸を開けて、
「すみません」
 と声をかけるしか方法はなかった。
「すみません」
 そう声をかけると、しばらくして爺さんがやってくる。たいがい何かを食べている途中で口をもぐもぐさせているか、耳かきで耳の穴をほじっているか、途中まで読んでいる新聞から目を離さないままか、とりあえず何かをしながら爺さんはやってきてガラス戸を開けた。
「いらっしゃい」
 蚊の鳴くような声で爺さんが言う。
「すみません。父から頼まれたわかばをください」
 私がそう言うと、いつも爺さんがギロりと大きな目でこちらをにらむ。
「あんたが吸うんとちゃうやろな」
 爺さんはそう言いながら、返事を待たずに自分も脇にある商品の棚からわかばを三つ取り出す。いつも三つ買うので、言わなくても三つ出てくる。いつも通りだと言えば、毎回「あんたが吸うんとちゃうやろな」と爺さんは言う。そう言われるのが嫌で、自分のほうから「父から頼まれたわかば」というフレーズを言うようになったのだが、いくら言ったところで、爺さんの疑り深いセリフと視線は毎回変わらなかった。それなら、こっちも妙な言い訳めいたことを言わなくてもいいのだが、自分から言い始めて途中で辞めるのは悔しい気持ちがあった。いつか、爺さんが折れて、疑いのセリフを吐かなくなるまでは、という妙な負けん気もあった。
 この爺さんには負けてはならない、と思うようになったのは、シベリア帰りだと聞いたからだ。誰から聞いたのかは思い出せないのだが、「煙草屋の爺さんはシベリア帰りや」と誰かが言うのを私ははっきりと覚えていた。それが父の声だったような気もするし、母の声だったような気もする。もしかしたら、当時よく通った小さな本屋のオジさんが誰か別の人と話しているのを小耳に挟んだのだったかもしれない。どちらにしても、煙草屋の爺さんはシベリア帰りだという話を聞き、私は当時の小学校の担任の先生に聞いたのだ。
「先生、シベリア帰りとはどういう意味ですか」
 すると、ちょっと甲高い声で話す女先生は教室の後ろの壁に貼ってあった世界地図のところまで行って、シベリア帰りのことを説明してくれた。そして、最後に、こう言った。
「たぶん、そういうことだと思うけど、もしかしたら違うかもしれないから、そのお爺さんに直接聞いてみたらどうかしら」
 そう言われて、私はこの女先生は馬鹿なのかもしれないと思った。直接、そんな話ができるなら、先生に聞いたりはしない。どうしてそんなこともわからないのだろう。そう思いながら、その日の学校帰りの道すがら、少し遠回りをして、煙草屋の前を通った。爺さんはいなかった。ガラス戸の向こうからラジオの音が聞こえていた。姿は見えないけれど、呼べば聞こえるのだと思った瞬間に、私はガラス戸を開けて、すみません、と声をかけていた。
「すみません」
 ラジオがパーソナリティの紹介で歌謡曲を流し始めた。その声で聞こえないのかと、もう一度、すみません、と声をかけた。返事のようなうめき声のようなものが聞こえて、爺さんが奥から姿を見せた。爺さんは私の顔を見て、少し驚いた顔をしていた。
「父から頼まれたわかばを」
 そう言いながら、それが言いたかったことではないのだと思っていた。でも、本当に言いたかった言葉は声にならなかった。どうしよう、どうしようと思っていると、
「あんたが吸うんとちゃうやろな」
 と爺さんはいつも通りに言った。言いながら、いつものようにわかばを三つ取り出すとガラス戸のこっち側へ押し出した。お金を持っていない私は、しばらくポケットの中を探りお金を探すふりをした。爺さんはしばらくそんな私を見ていたが、やがて、こんどでいい、と言った。
 私は爺さんを見た。
「今度でええから」
 爺さんはそう言うと、ガラス戸を閉じた。私はガラス戸のこっち側にポツンと置かれた三つのわかばをしばらく眺めた。(了)