安宿のような人生

植松眞人

 都心の列車に乗って、ドアの脇に立つ。半身になって流れていく赤茶けた鉄路をぼんやりと眺めていると、不意に対向車が大きな音を立ててすれ違う。驚いて鉄路に向けていた視線を上げると対向車の窓の中に見知った顔を見たような気がするのだけれど、たぶん思い違いだろう。しかし、万が一にもそれが見知った顔ならこちらを見られたくはないという判断が瞬時に働き思わず顔を下げる。もともと、こんなに速くすれ違う列車と列車の窓から人の顔を判断することなど出来はしないのに。
 そう思いながらもう一度視線を鉄路に下ろすと同時に対向車は行き過ぎ、また同時に雨が降り出した。頼りない破線を窓に描くように水滴が流れ、それが数本確認できたかと思うと、あっという間に土砂降りだ。
 あんな言い様をされれば誰だって腹が立つとは思うが、私のように相手が自席に着くのを待ち構え後ろから首筋に自分の腕を巻き付けて頸動脈を締め付けるというチョークスリーパーなる技をかけて落ちる寸前までに攻める理由があったのと言われればそれほどでもない。しかし、子どもの頃からのこらえ性のなさでどうしても、怒りを腹に留めることができず絞めたり、殴ったり、罵倒したりということを繰り返してきた。小学生の頃なら、先生に仲裁され「さっきはごめんね」と言えば、たいがいのことは許してもらえたが、三十を過ぎたいい歳をしたおっさんとなってしまっては、何かするたびに世界が狭くなる一方だ。
 そういえば、さっきのすれ違った列車で朦朧とした幻想のように思い当たった見知った顔は、数年前にこちらのミスを指摘され、腹立ち紛れにあることないこと罵倒して辞めさせてしまった女子社員の顔に似ているような気がする。あの女とは一、二度情交もあったがたいした気持ちのやり取りもなく、辞めてやる、と叫んだときもざまあ見ろと思ったくらいだった。しかし、昨年くらいから去った女の身体が惜しく思えることもあり、女々しくツイッターのアカウントをバレないように検索して、日々の行動を監視しながらしたり顔で、大人しくしてればいいんだと独りごちたりしている。
 都心から小一時間走った後で列車を降りると、かつて浮浪者があちこちの町角にいたという呪われたような地区のいまだに、「カラーテレビ付き一泊五〇〇円」などと看板をあげた簡易ホテル街の裏手にあるうらぶれたアパートに帰ってくる。おそらく戦後すぐに建てられたであろう木造モルタルのアパートは、一泊五〇〇円の簡易ホテルの外観よりもいかれていて、いまにも崩れそうだ。
 一泊五〇〇円だとひと月三十日連泊したとしても一万五〇〇〇円にしかならず、自分が住んでいるアパートと値段が変わらない。しかも、少なからぬ敷金礼金を払わされ、カラーテレビも持っていないとなれば、日々目にするすえた臭いのする浮浪者よりも一段低い暮らしをしているのだと自覚して、酒を飲む気にもならずささくれた畳の上にジャンパーを着たまま寝転がる。
 俺は映画を作るのだ、と叫びながら友人達と公開するあてもない映画を作り、出来た映画の不出来に愕然とした日々がなぜあれほど光り輝いていたのだろうという嫌な夢を見ながら嘔吐で畳を汚し、同時に涙を流しながら、この涙の清らかさを誰か見てくれ、誰か見てください、どうぞ見てください、心から願いながら汚物にまみれて眠ってしまうのだった。