彼氏なんてすぐにできる。

植松眞人

 中学を卒業する時に仲のよかった女の子たちと、誰が一番早く彼氏を作るかという話になって、きっとそれはメグちゃんだよ、とみんなに言われ、そう言われたんだからそうしなくちゃと思い込んでしまったので、私は高校に入学したその週の内に彼氏を作った。
 彼氏を作るのはとても簡単だった。同じクラスの隣の席になったサクラちゃんが「やっぱりサッカー部とかバスケ部とかでキャプテンになりそうなかっこいい子がいいよね」と言うので、サッカー部に入ったという話をしていた背の高い鈴木君に「付き合ってください」と頼んでみたら、いいよ、と言ってくれて私たちは付き合うことになった。サクラちゃんに、鈴木君と付き合うことになったと報告したら、早っ!と驚かれた。私はすぐに中学の時の友だちにLINEで報告して、一番乗りはやっぱりメグちゃんだったね、と言われたので嬉しくなった。小学校も中学校もそれほど楽しくはなかったけれど、もしかしたら高校生活は楽しくなるかもしれないと嬉しくなった。
 高校入学から二週目の土曜日に鈴木君とディズニーランドへ行って、帰り道に鈴木君の家に誘われた。家には誰もいないから、と鈴木君は言って、私ももしかしたら二人っきりになるかもしれないと思っていたので、そんなに驚かずに鈴木君の家に行った。
 ディスニーランドで長い列に並んでいるときに、もう手は握っていて、お互いに大好きになっていたので、鈴木君の家に誘われたことには驚かなかったけれど、鈴木君の家が私の家からとても近いことには驚いた。同じ町内で最後の丁目と番地が違っているだけだった。それだけで小学校も中学校も違うので、私たちは高校で初めて出会ったわけだけれど、いつもパンを買っているパン屋さんは鈴木君の家の二軒隣にあった。
 鈴木君に、あそこのパン屋さんおいしいよねと言ったら鈴木君が、買ったことがないというので私があんパンとクリームパンを買ってプレゼントした。はい、プレゼントと渡したら、なんで、と鈴木君が言うので、いつも何かあるとコンビニのチョコとかお菓子を友だちにプレゼントしてしまう私はなんだか変な気持ちになった。そんな気持ちを隠して、どうしてあんなに近くにパン屋さんがあるのに買わないのって聞いたら、鈴木君は母さんがあんまり近くの店で買っておいしくなかったら気まずくなるからって言うんだと笑った。なので、そのパン屋さんに入ったとき、鈴木君は少し緊張しているように見えた。そして、鈴木君の家の鈴木君の部屋で初めてキスをしたとき、鈴木君の唇にはあんパンの小さなパンくずが付いていて、ほんの少しあんこの味がしたような気がしたのだけれど、私は私でクリームパンを食べたので、もしかしたら鈴木君のファーストキスの味はクリーム味だったかもしれない。
 鈴木君がファーストキスだったかどうかはちゃんと聞いてないけれど、ものすごく緊張して、鈴木君の歯と私の歯がカチッと音がするくらい当たったので、きっとファーストキスだったのだと思う。もちろん、私はファーストキスだったけれど、あまり緊張はしなかった。中学の時に、女の子同士でキスをしたことがあったからかもしれない。あのときは、なんとなく女の子同士のキスが流行っていて、なんとなくみんなで軽くキスをし合って、チェキで写真を撮ったりしたのだった。あの頃まだスマホを買ってもらっていなかったのでチェキだったけれど、きっとスマホだったらもっとたくさん撮影してたし、もしあの頃インスタがあったら、間違いなくインスタとかにあげてしまっていたと思うし、その子たちとはあれからすぐにLINEでケンカして口もきいてくれなくなったから、あの頃スマホを持ってなくてよかったと心から思う。
 その日、鈴木君はキスの後で、私の胸を服の上から触ったりしたけれど、私はそれ以上は止めてと言うと、鈴木君は止めてくれた。正直私はその日、鈴木君としてもよかったのだけれど、胸を触りながら鈴木君が、メグと私の名前を呼んだので、私も鈴木君の名前を呼ぼうと思い、その時に、前にお父さんが「鈴木という名前の奴にろくな奴はおらん」と言っていたことを思い出して、ちょっとだけブレーキがかかってしまったのだった。
 実は他にもお父さんが言っていたことがあって、笑ったときに笑顔が歪んで見える奴は悪い奴だとか、どっちがいいかと聞かれてどっちでもという奴は信じられない奴だとか、妙に首の長い奴は黙って消える奴だとか、そんなことを言っていたのだけれど、今日、二人で遊んでいる間、鈴木君はお父さんが言った「駄目な奴」に全部当てはまっていて、私はほんの少しだけ立ち止まろうと思ったのだった。
 お父さんが言ってたことは全部当たっているとは思わないけれど、お父さんはお父さんでどっかで嫌な目にあって、そう言っているんだろうな、と思うと無視できないなと思うし、それにお父さんにはお世話になっているから、お父さんの言うことをなかったことにするとお父さんが可哀想だという気もした。しかも、鈴木君はもろに鈴木なわけで、私は迷信とかは信じないけれど、お父さんの言うことはあながち間違いではないような気もしたのだった。
 というわけで、私は鈴木君の家で、キスをして胸を触られただけでドキドキして、このまましてもいい気がしたけれど、やっぱりやめてもらってそのまま帰ってきた。帰る前に、二軒隣のパン屋さんに行き、お母さんにLINEでパン屋さんにいるんだけどパンいる?とメッセージしたら「クロワッサン、買ってきて」と返ってきたのでクロワッサンを三つ、お父さんとお母さんと自分の分を買って帰った。
 家に帰ってすぐ、同じクラスの女子のLINEグループに私と鈴木君がデートしたことが流れてきて、誰にも言っていないはずなのにどうして知っているのか不思議だったので、言い出しっぺの子に聞いてみたら、鈴木君が友だちに言いふらしているということがわかった。そして、鈴木君は私とキスをして胸にも触ったと何人もの男子に伝えたということだった。
 私はさっきまで鈴木君が少し好きだったのだけれど、LINEのやりとりをたった五分しているだけで、もう鈴木君のことが嫌いになっていて、鈴木君のことをお父さんがこれまでに言っていた、駄目な奴の集合体のようにしか思えなくなっていた。やっぱり鈴木という名前の奴にはろくな奴がいない、と私は声に出して言ってみた。女子のLINEグループで私は、鈴木君とはデートはしたけれど、キスもしたけれど、胸は触られていないし、もう好きじゃないから会わない、と流した。すると、すぐにLINEの女子のグループには入ってないはずの鈴木君から直接LINEが来て、付き合ってるのに別れるのか、というメッセージが来たので、女子のLINEグループの中に鈴木君に言いつけている子がいるんだなとわかった。ああもうこのクラスの男子にも女子にも私は嫌われるんだなあ、と悲しくなったけれど、ちゃんと別れます、と鈴木君にメッセージして、鈴木君のLINEをブロックして、女子のLINEグループからも抜けた。
 私はなんだか、すっかり疲れてしまって、そのままパジャマにも着替えずに寝てしまったのだけれど、晩ご飯の前にお母さんが私を呼びに来た。お母さんは、晩ご飯をシチューにしたから、買ってきたクロワッサン食べようと、と言うので、クロワッサンの入ったビニール袋をお母さんに渡した。お母さんが、あなたこのビニール袋の上に乗ったでしょ、というので見てみると、確かにビニールがしわくちゃになって、なかのクロワッサンが少しつぶれていた。
 それでも、お父さんもお母さんも、あのパン屋さんのクロワッサンはおいしいと食べてくれた。私もおいしいと思いながら食べたのだけれど、どうしても鈴木君のことを思い出してしまって、寂しい気持ちになってしまった。あんな奴に胸を触らせたことを私は後悔していた。でも、付き合ってください、と言ったのは自分のほうからだったので、そのことは素直にごめんなさいと思っていた。でも、私の高校生活は始まったばかりだし、中学の友だちのなかで一番最初に彼氏が出来たのだって確かだったので、強く生きなきゃと思った。中学の卒業式の日に担任だった野中先生が「君たちの未来はとても明るいんです。だから、いつも前を向いて、明日を見ながら強く生きてください」と言っていたからだ。
 野中先生、私は鈴木君にもクラスの女子にもクロワッサンにも負けずに生きていこうと思います。
 私がそんなことを思っていると、お父さんとお母さんがコーヒーを飲みに行こうと私の部屋に誘いに来た。お母さんは、お父さんがいないと私とはあまり話さない。一緒にご飯を食べるときもあまり話さないし、二人で買い物に行くこともない。ただ、お父さんがいるとお母さんは私に話しかけてくる。きっと、お父さんといるとお母さんは楽しくなるのかもしれない。もしかしたら、お父さんがいないと、私と二人きりだと楽しくないのかもしれない。だけど、そんなことを考えるととても悲しくなってしまうので、私はお母さんと二人で家にいるときにはなるべく自分の部屋にいて、ネットで動画を見たりする。動画の中にはこっちに話しかけてくれる人がたくさんいて、見ていて飽きない。だけど、本当は私はテレビでバラエティ番組を見ているときがいちばん落ち着く。できれば、お父さんがいて、お母さんが楽しそうで、その横で私がテレビを見ることができればそれが一番幸せな時間かもしれない。それなのに、なんとなく私の家族はそれができなくなった。
 近所に出来たコーヒーショップはアメリカに本店があるのだと、中学の同級生が教えてくれた。アメリカに旅行のときに本店に行って、タンブラーを買ってきたのだと見せてもらったことがある。誰かが、本店のほうがおいしいの?と聞くと、一緒だったわ、とその子は答えた。
 私はそのコーヒーショップでコーヒーを飲んだことがない。私にはとても苦すぎて飲めないので、いつもクリームがたくさんのった甘い飲み物を飲む。そこには少しコーヒーが入っているみたいだけれど、甘さが勝っているのでちゃんと最後まで飲むことが出来る。飲んでるっていうよりデザートを食べてるみたいだと思う。お父さんとお母さんは、ここに来るといつも苦いコーヒーをトールサイズで一つ頼み、甘いデザートみたいな飲み物を一つ頼んで二人で分け合って飲む。それがなんだかうらやましい気はするけれど、二人が飲んだものを一緒に分け合いたいとは思わない。私は私が頼んだものを最後までちゃんと飲みたいと思う。
 何にする?とお父さんに聞かれたので、私は、コーヒーにする、と答えた。お母さんは、飲めるの?と困ったような顔をして、お父さんは、おっ!コーヒーに挑戦か、と笑った。お母さんと二人で席で待っているのが嫌だったので、私はお父さんと二人でカウンターに並び、オーダーして商品を待った。いつも通り、コーヒーのトールサイズと甘い飲み物、そして、いつも通りじゃない私のコーヒーがショートサイズで現れた。
 私はお母さんの隣の席に腰を下ろし、お父さんは私とお母さんの前に座った。苦いコーヒーがまず私とお母さんの前に置かれた。お母さんは苦いコーヒーをとてもおいしそうに飲む。私はお母さんと同じくらいおいしそうに苦いコーヒーを飲もうとしたのだけれど、コーヒーは自分が想像していた以上に苦かった。そして、熱かった。熱くて苦くて私は思わず顔をしかめた。その顔を見てお父さんは笑い、お母さんはまた困った顔をした。私は、苦い、と声に出して言い、同時に、困った顔のお母さんにも笑っているお父さんにも、そして鈴木君にもクラスの女の子たちにも、中学時代の同級生たちにも、なんか苦いなあと思った。みんな苦くて苦くてたまらないなあと思った。
「ねえ、お父さん。野中って名前はどう?」
 私はお父さんに聞いてみた。父は、不思議そうな顔をした。
「野中って?」
「ほら、鈴木って名前はろくな奴がいないんでしょ」
 私が言うと、母が遮るように言った。
「メグったら、どこに鈴木さんがいるかわからないでしょ。日本全国鈴木さんだらけなんだから」
 母はささやくような、でも強い口調でそう言った。
「ああ、そういうことか。野中、野中。そうだなあ、野中って名前に知り合いはいないかもしれないなあ」
「いないの? じゃあ、いい人かどうかもわからないね」
「うん、わからない」
 お父さんにそう言われて、私はちょっと嬉しくなった。みんな苦くてたまらないけれど、私に希望の言葉をくれた野中先生のことはもうちょっと信じてもいいような気がしたからだ。いつか、野中先生も苦いやつらの仲間入りをするかもだけど、それまでは野中先生の言葉を大切にしよう。私はそんなことを思いながら、苦いコーヒーを最後まで飲み干した。