投げた石が後ろから

植松眞人

 犬の散歩に付き合うことになった。
 友人の家に遊びに行くと、そこはとても大きな家だった。なんだか長い板塀が続いて、この板塀が途切れたあたりに、路地でもあり、そこを折れたら友人の家があるのだろうと想像していたのだが、その板塀が友人の家の板塀だった。正しくは、友人の実家の板塀だったのである。
 どんな会社に勤めても、なかなかうまく溶け込めない私だったのだが、今回の転職で最期にしたいという思っていて、だからこそ、転職した初日に「困ったことがあったら、何でも言ってくださいね」と申し出てくれた道畑くんには本当に救われた思いがしたのだった。
 そのおかげなのか、仕事にも比較的早くに馴染むことができ、大きなミスをすることもなくそれなりに仕事ぶりも形になってきた。そう思えた頃、ちょうど仕事を始めて半年くらい経った頃だろうか。道畑くんが声をかけてくれたのだった。
「高橋さん、今度、うちに遊びに来ませんか」
 道畑くんはそう言ったのだった。大学を出て以来、人の家に遊びに行ったという記憶がなかった私は少しその申し出に戸惑ってしまった。
「遊びに行く?」
 私がオウム返しに聞くと、道畑くんは笑った。
「ええ、そうです。遊びにというと妙ですが、実は親戚が北海道にいましてね。そこで牧場をやりながら農作物を作っているんです。で、毎年秋が深まる頃になると、いろいろと送ってきてくれるんです」
「それはいいね」
 私は素直に言った。
「ええ、でも、ちょっと量が多いものでお裾分けをかねてどうかと思って」
 道畑くんはそう言うと、私の返事を待っていた。私がどう返事をしたものかと考えていると、道畑くんは私をリラックスさせるかのように続けた。
「高橋さんのところと、うちは住所が近いですし、きっとうちの母も喜ぶと思うんです」「道畑くんは実家から通っているの」
「いえ、私は会社から三十分くらいのところで一人暮らしです。ただこの時期は毎年、母に呼ばれてまして。母は親戚から届くトウモロコシやジャガイモ、チーズなんかをとても楽しみにしているんですが、それ以上にそれを料理して私に食べさせることを楽しみにしているんです。もう、父は亡くなりましたので、母と私だけなんですが、どうにも母が料理を作り過ぎるので、いつも大変なんですよ」
 道畑くんはそう言うと屈託なく笑った。
「なるほど、だから、僕と道畑くんの二人でお母さんの手料理を食べようってことだね」
 私が答えると、道畑くんは、はい、と元気よく返事をした。
 私は道畑くんとスケジュールを確認し、一週間後の日曜日に昼食をともにしようと約束した。約束をしてしまうと、その瞬間に約束しなければよかったと思ってしまうのは私の子どもの頃からの癖のようなものだ。

     ■

 この長い板塀の家こそが道畑くんの家だということを知って私は驚いた。道畑くんが家を出てからは道畑くんのお母さんが一人で暮らしている、という話を聞いていたので、こじんまりとした二階建ての家を勝手に想像していた。しかし、目の前に現れたのは、長い長い板塀に囲まれた大きな家で、都内では充分に豪邸と呼ばれるような家だった。趣味よく設計された和洋折衷の外観はそれなりの威圧感も漂わせていて、人当たりの良い道畑くんが生まれ育った家というイメージとはほど遠かった。
 私が門柱のブザーを鳴らすと、道畑くんのお母さんの声がした。とても上品な声と話し方で、楽しみにお待ちしておりました、と言い、門扉を開けてくれた。自動で開閉できる扉で、私が中に入ると、扉はゆっくりと閉じられた。
 門扉から玄関までの小道はまっすぐではなく、右に折れてから玄関が見えてくるのだが、私の視界に玄関が入ってきた時には、そこに道畑くんのお母さんが立っていた。
 私は道畑くんのお母さんに、招いてもらったお礼を言うと、お母さんはもう一度、自分も楽しみにしていましたと答えてから、ほんの少し顔を曇らせて、息子の到着が遅れているようなんです、と付け加えた。私がそうですか、と返事をしたと同時に、道畑くんのお母さんの足元をすり抜けて、小さな犬が私の方へ走ってきた。茶色いダックスフントで、お母さんからはリッキーと呼ばれていた。私が試しに「リッキー」と声をかけると、リッキーは私の周りをくるくると走り回った。それから、私の真正面にしゃがんで首をかしげた。
「あら、高橋さんのことを気に入ったようね」
「そうなんでしょうか」
 私が聞くと、お母さんは続けた。
「この子は初対面の人にはとても警戒心をあらわにするんです。こんなに初めての人になついたのは初めてかもしれません」
 そう言われて悪い気はしなかったので、私は玄関口でしゃがみ込んで、リッキーの頭を撫でた。
「もしよかったら」
 お母さんはそう声をかけてきた。
「もしよかったら、リッキーを散歩させてくださらない」
 お母さんから請われて、断るすべはない。そうするのが当然というように、お母さんからリッキーのリードを受け取り、首輪に装着した。
「いつも、敷地の中を回るだけで充分なんです。そうこうしているうちに、息子も帰ってくると思いますから」
 そう言われたあと、私はリッキーを連れて家の周囲の板塀を今度は内側に沿って歩き始めた。
 リッキーを連れてゆっくりと歩くと、一周回るのにちょうど十分ほどかかった。リッキーはときどき立ち止まっては花の香りを嗅いだり、小便をして落ち葉で隠したりした。私はその後をただゆっくりとついて歩いた。
 家の周りを半分ほど歩いたときに、お母さんが台所に窓際に立っているのが見えた。それ以外の窓には当然のことながら、人影はいなかった。
 私はお母さんの影を尻目に、ぐるりと玄関に戻った。道畑くんが帰ってきた様子をはなかった。私はリッキーに「もう一周、歩くかい?」と聞いた。リッキーは当然のように歩き始めた。私はこれまでにもずっとそうしてきたかのように、黙って後をついた。
 二周回り、三周回り、四周目を回っても道畑くんは実家に帰ってこなかった。そして、お母さんはずっと窓の向こうで料理を作り続けていた。私とリッキーは、また家の周囲を回り始めた。日が暮れ始め、家の東側を歩くときには足元が見えにくくなってきても、道畑家の昼食は始まりそうにもなかった。
 何週目かの周回を始めながら、私はもしかしたら今日呼ばれたのは昼食会ではなく、夕食会だったのかもしれないと思いなおした。だとしたら、お母さんがまだ料理を作り続けていることも、道畑くんがまだ来ないことも合点がいく。「そうか、そういうことなんだな」と私はリッキーの背中に明るく聞いてみたのだが、リッキーは散歩に疲れたのか、ぴたりと立ち止まって動かなくなった。(了)