僕達はいつも松永くんをいじめていた。彼が少し知恵が遅れていたことと実は小狡い性格でみんなから嫌われていたので、ほとんどの同級生が少しずついじめていた。昭和四十年代には小学生たちは、全員で無視をするという高度な技は持っていなかったので、僕たちは個別に少しずついじめていたのだった。
と言っても、消しゴムを貸してあげないとか、彼の話がいつも長くてしつこいので途中で聞かなくなるとか、そういう感じだった。つまり、いまのような徹底的ないじめではなかったのだけれど、僕たちのなかには確かにいじめているという実感はあった。そのくせ、よそのクラスの子どもたちが松永くんに罵声を投げかけたり、あからさまな意地悪をすると、「やめろ」と声をあげたりするのだから、いま思えば余計にタチが悪い。松永くんは小狡いからちょっとくらいいいんだ、と僕たちは僕たちでかなり小狡い小学五年生だったわけだ。
ある日、松永くんがクラスの女の子にちょっかいを出した。六月になり衣替えでみんなが夏服を着出した頃だ。ある女の子が薄手のスカートをはいて着た。その子が窓際の席に座っていたのだが、窓から差し込む明るい日差しの中で女の子のスカートが透けて、スカートの中の足がはっきりと見えたのだった。はっきりと見えると言っても、さすがにそれはシルエットではあったのだが、それでも小学五年生の男子にとってはとても刺激的だった。松永くんは好奇心と性的な欲望のままにその女の子のほうへ近づくと、その足元にしゃがみ込んでじっと観察しはじめた。何が始まったのか理解できなかった女の子は松永くんを凝視したまま動けなくなってしまった。すると、松永くんは「すごい見えてるよ!すごい見えてるよ!」とまるで幼稚園児のように女の子のスカートを指さしたのだ。自分のスカートが透けているということを理解した女の子は恥ずかしさのあまり泣きだした。小学校の教室で女の子が泣き出すのはそれなりの事件で、教室が一瞬のうちに静まりかえった。
松永くんはある意味純粋で、ある意味無垢で、同時にとてもずるい子だった。そのことを知っている父親や学校の先生からは正論で責められ叱られることが多かった。だから、目の前で自分のせいで誰かが泣き出せば、きっとまた叱られるに決まっている。そう思った松永くんは静まりかえった教室の中で、静寂に負けじと声を張り上げた。
「すけすけや!スカートがすけすけや!裸や!裸や!」
そう叫ぶと、おそらく自分でも限度がわからなくなり、椅子に座っている女の子の足元に座り込むと、スカートをめくろうとした手を伸ばしたのだった。
教室は騒然とし、まず女子たちから非難の声があがった。そして、その非難の声に背中を押されるように、僕たち男子たちが立ち上がり実力行使で松永くんを女の子から引き離した。それは誰かを助けるということよりも、日ごろ気にしている女子たちの前でいい格好としたいという一心だった気がする。
その時、男子の一人が「しばいてまえ」と声をあげた。関西では殴ることをしばくと言う。殴ってしまえと誰かが叫んだのだ。すると、僕も含めて松永くんを取り巻いていた男子の数人が、松永くんを殴ったり蹴ったりし始めた。最初は「やめろや」と半笑いで抵抗していた松永くんだが、次第にみんなが本気で殴り始めたので、多勢に無勢だと悟り、ダッシュで逃げようとした。その時、松永くんは誰かの足に引っかかり、もしかしたら引っかけられて転んだのだ。転んだ拍子に松永くんは机の角で顔を打ったようだ。鼻血が床にぽたぽたと落ちた。小学生を黙らせるのに、流血ほど効果があるものはない。松永くんを取り囲んでいた人の輪が一気に広がった。女子の一人が「先生」と声に出しながら職員室に走った。
数分後、担任の佐藤先生が教室に走ってきた。佐藤先生は算数が得意な女先生で、怒るととても怖かった。松永くんを殴ったり蹴ったりしてしまった男子たちの全員の顔から表情が無くなった。数名の男子は顔の真ん中に目や鼻や口がぎゅっと寄ったように緊張し、佐藤先生が教壇に立つのを待っていた。佐藤先生は教室には駆け込んできたのだけれど、その後、教室の中の様子をひとしきり見ると、今度はとてもゆっくりした足取りで教壇に立った。そして、松永くんを指さして、こっちへ来いと合図を送った。
鼻血を流しながら松永くんはなぜか少し笑顔で先生の元へと小走りに向かった。おそらく、鼻血を流していることで自分が被害者として確実に認定されると思っていたのだろう。しかし、佐藤先生は自分の前に立った松永くんにニコリともせず、松永くんのあごに手を当てグイッと引き上げると鼻血の様子を確かめた。先生はクリーム色のスカートとジャケットを着ていたのだが、そのポケットからティッシュを取り出すと一枚抜き取り、それを適当な大きさにちぎり丸め、松永くんの鼻の穴に、鼻のかたちが変わるほど強く突っ込んだ。松永くんは「うぎゃ」と妙な声を出して鼻を押さえてうずくまった。
「なにがどうしたら、こんな鼻血を出すようなことになるのか、誰か説明して」
先生はまるで男の先生みたいに低い声で言うとあとは黙ってなにも言わなくなった。こういうとき、いつもなら学級委員長をしている池田くんが率先して話し始めるのだが、その池田くんも一緒になって松永くんを蹴ったり殴ったりしていたので黙っていた。仕方なさそうに口を開いたのは副委員長の平松さんだった。平松さんはいつも松永くんに「汚い」とか「向こうへ行け」とか言っている女子で尖った三角の赤いメガネをかけた気のきつい子だった。
「先生、私が説明していいですか」
平松さんが言った。先生はなにも答えなかったので、またしばらく沈黙が続いた。平松さんがおずおずと話し始めた。
「最初に、松永くんが清水さんのスカートが透けているって、エッチなことを言い出したんです」
すると、松永くんが、
「エッチとちゃう。ほんまに透けてたから透けてたと言っただけです」
先生は松永くんをにらんだ。松永くんは口を閉じた。
「いえ、透けてる透けてるって騒いで、近くに行ってスカートもめくろうとしました」
松永くんがまた何かを言おうとしたとき、佐藤先生が大きな声で制した。
「そんなことで、なんで鼻血が出るねん」
平松さんも松永くんも黙った。そして、その原因となった僕たち男子が下を向いた。
やがて先生は平松さんと清水さんを呼んで、教室の隅で話し始めた。しばらく話を聞いていた先生は、もう一度教壇に立って、いま二人から聞いた話を整理してみんなに話した。話の中身は、さっき教室で繰り広げられたことと寸分たがわない内容だった。
「間違いない?」
先生がみんなに聞いた。
「はい」
とみんなが答えた。
すると先生は、松永くんを呼んで、教壇にみんなのほうを向いて立たせた。次に殴ったり蹴ったりした男子に手を挙げさせて松永くんの隣に立たせた。ここまでで立たされた人数は八人だった。そして、最後に先生は手を出さなくても囃し立てた人は正直に言いなさいと挙手させた。クラスの半分の男女が前に呼ばれた。
一列目に囃し立てた男女が九人。二列目に松永くんと手を出した男子が八人。先生はまず一列目の男女一人一人にこう言った。
「手を出さなくても、罪は同じや。殴ったのと同じだけのことをしてるのと同じ。手を出してないから自分は悪くないなんて思うのは言い訳やし、ずるいし、汚い。まず、みんな松永くんに謝りなさい」
先生がそういうと一列目の端っこに並んでいた副委員長の平松さんが「ごめんなさい」と言いながら泣き出した。それをきっかけに一列目のほとんどが泣きだした。泣きながらみんなが「松永くん、ごめんなさい」と謝った。先生は泣いている男女に、うるさい、というと自分の席に座らせた。
残された僕たち八人を先生はきれいに等間隔に整列させると、順番に松永くんに謝らせた。そして、その後、順番にビンタを食らわせた。三人目に並んでいた僕は先生の掌が飛んでくる瞬間に少し顔を振ってビンタをかわした。音は大きかったがそれほど痛くはなかった。助かったと思った瞬間、先生の掌は戻ってきて逆の頰を思いっきり張られた。こうして、佐藤先生は僕たちを一人一人、まったく手抜き無く横っ面を張っていったのである。松永くんはと言うと、僕たちがビンタされる度に手を叩いて喜んでいた。確かに手を出したのは僕たちなので、先生にビンタされるのは仕方がない。そんな時代だったし、それだけ悪い事をしたと反省もしていた。だから、松永くんが手を叩いていても、後で仕返しをしてやるとは思わなかった。
一通り僕たちをビンタし終わると、先生は肩で息をしながら、こう言った。
「どんなに腹が立っても、どんなに調子に乗っても暴力は絶対にあかん。わかったね。それだけは約束してもらわんと、今日は帰されへん」
僕たちは先生に謝り反省の言葉を伝え、もうしませんと約束した。先生はわかったと声に出してやっと笑ってくれた。その時、松永くんも一緒になってこう言ったのだった。
「わかったか。調子にのんなよ」
すると、佐藤先生は松永くんの前に行き、思いっきりその横っ面を張った。思ってもみなかったビンタに松永くんは目を見開いて先生を見つめた。
「お前もいじめられるってわかってるのに、しょうもないことするなっ!」
先生はそう吐き捨てると、教室を出て行った。
それからも、松永くんは懲りずに日々面白くもないしょうもないことを繰り広げ、僕たちは決して手を出さないようにしながら、松永くんをいじり続けた。(了)