珈琲でも、どうですか

植松眞人

 伯父が施設に入ったと知らされたのはまだ暑い夏の盛りだった。亡くなった私の父の兄にあたる人だが、父と血のつながりはない。私の父は早くに母親を亡くし、三人いた姉も亡くなってしまっていた。
 父親が再婚し、継母の連れ子として兄弟になったのが伯父だった。その後、父には弟や妹もでき、父方の親戚が集まるだけでも賑やかな雰囲気になった。
 私は子どもの頃から、この伯父が好きだった。なんとなく品があって、やんちゃな父がちょっかいを出したり、憎まれ口をきいても、ただニコニコと笑っていた。
 伯父は映写技師の資格を持っていて、映画の配給会社に長く勤務した。そして、この伯父が毎月のように送ってくれる映画の試写会の招待状がいま思えば私を映画の世界へと導いてくれたのだった。
 そんな伯父も九十歳を越えて、次第に弱くなった。最初は耳が遠くなり、最近では足が悪くなった。一人息子の従兄弟は結婚もせず、伯父と一緒に暮らしていたのだが、車椅子になった伯父を一人で置いておくことができず、施設に入れることになったのだという。
 私は妻と連れだって、伯父を訪れた。施設を訪ねるためには予約が必要だというので、従兄弟に頼んで予約を取ってもらい、一緒に訪ねた。エントランスを入ると、担当者らしい若い男性が甲高い声で、「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。その声の高さが、近所の居酒屋のアルバイトと同じように聞こえて、なんとなく私の気持ちは曇った。
 個室のドアを開けると、伯父はぼんやりとした視線を天井に向けていた。すると、さっきの担当者がベッドの脇に立ち、伯父がどんなふうにここで過ごしているのかを話はじめた。ただ、その内容は、伯父がどう感じているかとは別に、施設がどんなことをしてあげているのか、ということが主で、相手が懸命に話せば話すほど、私は伯父が不憫でならないような気持ちになってしまうのだった。
 途中、おやつの時間になり、若い外国人女性がプラスチックの器に饅頭やウエハースを放り込んだものをもってきた。伯父はベッドを起こしてもらい、一緒に置かれたミルクコーヒーのようなものを手に取り一口飲んだ。そのとき、伯父は眉間に皺を寄せて、表情を歪めた。
「甘くないね」
 伯父が言うと、担当の男は
「いつも、甘いのがいいっておっしゃるんです」
 と先回りするように言う。
 伯父はもう一口すすると、
「甘くないね」
 とまた言って、同じように表情を歪めるのだった。
「構わないので、砂糖を入れてやってください」
 そう言うと、男はうなずきながらカップを手に部屋を出て行った。飲み物はミルクコーヒーのような色をしていたが、それが何なのかは聞かなかった。飲み物を待っている間、伯父は小さな饅頭に手をのばして、口に運ぶ。これもそれほどうまくはないのか、一口、二口食べると、器に戻して食べるのをやめてしまった。そばで見ていると、饅頭の粉がポロポロとこぼれ、なんだかパサついた食べ物であることはわかる。
 男が飲み物を持って入って来た。テーブルに置かれた飲み物はさっきよりもだいぶ量が増えていた。砂糖を入れるだけなのに、どうして量が増えているのか不思議に思ったけれど聞かなかった。伯父は再び置かれた飲み物に手を伸ばして、口に運んだ。伯父はまた顔を歪めたが、今度はなにも言わなかった。
 食べることにも退屈したのか、伯父は寝かして欲しいと身振りで伝えてきた。耳の悪い伯父はおそらく施設のスタッフの言うこともあまり理解出来ないのだろう。そして、施設のスタッフの側も伯父との会話を諦め、通り一遍のやりとりだけをしているように見えた。
 外国人の若い女性スタッフが、「では、ベッドを楽にしますねえ」と声をかけ、伯父の背中に手を回す。伯父は雰囲気で察しているだけで、女性の声は聞こえていない。もう、この作業に慣れているのだろう。手を回されると、自分も女性も首に手を回して、落ちないように態勢をつくる。その時、伯父は少し大きい声を出した。
「冷たい手えやなあ、あんた」
 女性は「ごめんなさい、あっちで洗い物していたから」と慌てて謝った。
 ああ、この人は我慢しているのだなあと私は思った。ボケてもいないし、鈍くもなっていない。ただ足が悪く耳が聞こえないだけで、頭の中はちゃんと以前のように動いている。目を見れば、感情だってくるくると動いていることがわかる。私たちが来て、たった三十分で、伯父の顔色は良くなった。目にも輝きが出てきた。伯父は伯父のまま、この施設にいることを受け入れているのだと思うと、涙が出てきた。
 伯父が眠そうな顔になったので、私たちも「また、来るから」と伯父に声をかけた。すると、伯父はまた起き上がろうとして、言うのだった。
「喫茶コーナーで珈琲でも飲みましょう」
 この施設に喫茶コーナーはない。けれど、珈琲好きだった伯父は、あんな不味い珈琲ではなく、美味しい珈琲にたっぷりと砂糖を入れて飲みたいのだ。
「ここには喫茶コーナーはないのよ」
 私の妻が言うと、伯父は繰り返した。
「珈琲でも、どうですか」
 妻が、背中をさすりながら頷くと、伯父は嬉しそうに笑い、ほんの少し涙を流した。(了)