設計図

植松眞人

 新幹線の東京駅のホームを駆け下り、人混みの中を抜けてから中央線のホームへと駆け上がる。ちょうど発車間際の車両に乗り込んで、ほどよい混み具合に少し奥へと押されていく。扉の前から横一列に並んでいる人たちの前へ。その真ん中当たりに男は座っていた。年の頃なら六十を越したあたりか。最高級とは言えないまでも、そこそこ値段の張るようなスーツを着て、背筋を伸ばして座っている。膝の上には大きなプラスチック製のデザインバッグが、少し膝からはみ出して置かれている。
 発車を告げる妙な電子音のメロディが鳴り響くと、列車が走り出し、ほぼ同時に男がデザインバッグを膝の上に立てて、中に入っていた紙の束を取り出す。A3サイズほどの大きめの紙の束には細かな線や文字がびっしりと書き込まれていて、一見するとグレーの紙を取り出したのかと思うくらいだった。
 そこには設計図が描かれているのだった。素人目にはそれほど意匠を凝らした建物の図面には見えず、どちらかというと近所の田畑が急に整地されて建てられる単身者向けの賃貸マンションのように見えた。長細い敷地に長細い建物が建てられ、真ん中に廊下があり、左右に数部屋ずつ配置されている。
 男はパラパラと図面をめくり、そんな設計図が十数枚ほど束になって簡単な製本が施されていることがわかる。男は膝の上にデザインバッグを置き、その上に設計図を置いた。胸のポケットから取り出したペンは太い軸で、その中に何色かの色鉛筆の芯が仕込まれているようだった。男は赤色の芯を選択すると、さっとく設計図に書き込みを始めた。
 まっすぐに引かれた線を少し斜めに修正してみたり、途中に小さな文字で何か書き込んでみたり。赤い線を入れた上に、さらにもう少し角度を変えた赤い線を描き加えてみたり、男は一枚の設計図の向こう側にもう一つ別の世界があるのではないかと思わせるほどに線を描き加えることで奥行きを作り出していく。いや、その建築の素人から見て奥行きに見えるものは、男の思慮の深さを示しているのかもしれないし、もしかしたら、この設計図の混乱や混沌を示しているものなのかもしれない。どちらにしても、男の目の前の設計図はどれもそのままでは形にすることができない、ということをどこかの誰かに思い知らせるために、徹底的に赤入れされている。もしくは、男が自分で作り上げた図面を再構築している真っ最中なのかもしれない。
 男は中央線が東京駅から新宿を過ぎるあたりまでの間に、目の前にあった図面のほとんどを真っ赤にしていくのだった。そして、中野駅を過ぎたあたりで、男は小さいけれど長いため息をついて、最後の一枚を開いた。それは、さっきまでの図面とそれほど大きく違うようには見えない、ごく普通の賃貸マンションのそれのように見えた。しかし、男はさっきまでと違い、その図面にはすぐに赤入れをせず、しばらくじっと図面を眺めているのだった。何を見ているのかはよくわからない。線を追っているふうでもなく、なんとなく図面全体をぼんやりと眺めている。
 私は男の前のつり革にぶらさがりながら、ずっと男と設計図とのやりとりを見ている。そして、ここへ来て立ち止まってしまったかのような男をじっと見つめている。まもなく、列車は吉祥寺を出て三鷹へと向かう。私の降りる駅も近づいている。
 電車がクンッとしゃくり上げて走り出した瞬間に、男の手が動きペン先が最後の図面全体を右上から左下に大きく斜めに線を入れた、ように見えた。しかし、実際には男の手は動いただけで赤を入れることはなかった。もし、本当にペンが図面に接していたなら、あれは赤入れではなく、きっと図面全体に対する駄目出しの斜線だったのではないかと、私は思った。また動かなくなった男を見ながら、私も目が離せなくなっている。右へ左へ、前へ後ろへと揺れ続ける列車の中で、私と男の揺れはシンクロして、二人の間に揺れはなかった。揺れのないクリアな視界の中で、私は男を見つめ続け、男は図面を見つめ続けていた。
 やがて、男は最後の図面に小さな書き込みをいくつかして、図面の束を閉じ、デザインバッグの中にしまい込んだ。
 列車は次の駅へと滑り込んだが、それが私自身の降りる駅なのかわからず、私はホームの駅名を必死で探し続けた。(了)