月を追いながら歩く(2)

植松眞人

 空と大地の境界線を写し込まない写真は、なんだか気持ちを落ち着かせない。モノクロの画像は、写った空や雲が曖昧なせいか、水平が取れているのかどうかもわからない。
 裏書きされている『長野にて 一九八〇』という文字がなければ、それがどこで撮影されたものなのかわからない。いや、書いてあったとしても、それが本当かどうかなんてわからない。
 邦子は何度もその写真を眺めたり裏返したりしながら、小さくため息をついて、カフェの小さなテーブルの上に置いた。テーブルの上に置かれてしまうと、写真の中の空と雲はさっきよりも曖昧になって、写真の印画紙からテーブルの上にずるずると広がっていってしまいそうな気がした。
 ぬるくなったコーヒーを飲みながら、邦子はぼんやりとテーブルの上の写真を見ている。さっきひとしきり話したカフェの女の子は、なぜかそのまま邦子の目の前の席に座っている。
「仕事は?」と何気なく水を向けてみると、
「ちょうど終わったところなんです」と屈託なく笑い、立ち去る気配がない。
 この目の前に座っている女の子を味方にしてしまおうと邦子は決めた。この子は顔立ちがとても綺麗だし、なにより屈託のない笑顔と、写真をじっと見つめる眼差しが気に入っていた。今どきの女の子は、初対面でも友だちのように話すというが、あれは嘘だと邦子は思う。確かに、なれなれしい人も多いが、それは年齢に関係ない。会社を定年退職する間際の上司のなかにも、周りからセクハラだと言われてしまうほどになれなれしく話しかけてひんしゅくを買ってしまう人がいる。彼らは本当に人との距離感が分からない。でも、若い人たちは友だちのように話すふりがうまいだけだ、と邦子は思う。逆に心開いているつもりで付き合うと、こちらが痛い目に会ってしまうのだ。邦子自身も若い世代とのやりとりで、何度かそんな目に会っていた。そして、そんな経験を通して、邦子なりの若い世代とのやり取りのコツのようなものも知らず知らず身につけていた。
 邦子はあえてあまり興味がなさそうに、名前を聞いてみる。すると、女の子も、構えることもなく「かおるです」と答える。
「本当は薫という字で、もう一つ子をつけて『薫子』という名前がよかったんですけどね」
 そう言いながら、香は『香』という字と『薫子』という字を店の紙ナプキンの端にボールペンで書いた。よほど『薫子』という名前に憧れているのか、画数の多いこの字をすらすらと書いた。
「私は薫子でもいいんだけどね」
 邦子が笑いながらそういうと、香ははじけるように笑う。
「そんなこと言われたの初めてです」
「そうなの?」
「同い年の女の子には、ふざけて私のこと『かおるこちゃん』なんて呼ぶ子はいるけど、ほとんどの人たちには叱られますから」
「叱られるって、どういうこと」
「せっかく親が付けてくれた名前なんだから大事にしないといけないとか、薫子より香のほうがお似合いだよとか」
 そう言われて、今度は邦子が笑ってしまう。
「そうか。なかなか大変なんだ」
 みんなに自分が憧れている名前の話をしている香という女の子も大変だし、その話を聞かされている周りの人たちも大変だという気がして笑ってしまったのだった。その意味が伝わったのかどうかわからないが、目の前の香も笑っている。
「でも、香でいいです。なんだか薫子に憧れている香が、ちょうど私っぽい気がするし」
 そんなことを言う香という女の子が、とても愛おしい気がして、邦子はこの写真のことをもう少し二人で話してみたいという気持ちになっていた。