グロッソラリー ―ない ので ある―(17)

明智尚希

 1月1日:「おすすめの映画は、1991年公開の『みんな元気』だな。高校生の時なんか学校なんか行かずにぶらぶらしてた。新宿か銀座のどっちだったけなあ、確か単館上映だったと思う。リアリスティックなとこがいいね。作り物っぽくないとこ。ちなみにそれ見た翌日、新宿の昭和地下に行ってるからな。これもまた現実。わはは――」。

(▽⌒) ワハハ

 精神的な沈滞がひどい時、嫌がる四肢を動かして散歩に出る。血流が聞こえ、感覚の目覚めがあり、得体の知れない粒子、モナドが全方位から急速に肉薄してくるのがわかる。デュナミスを間近に感じる。エネルゲイアが見通せる。ここで知覚の扉を開放したままではいけない。我がものとするために、沈滞が始まった同一地点へ戻る必要がある。

ハァ━(-д-;)━ァ…

あっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあ
いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、い
うっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっ
えあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえ
おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおおお

∵ ゞ ( > ε < ; ) ぶっ

ぼんやりと思い出しても、老若男女を問わず嫌な輩がぞろぞろ現れる。上役の前でだけ大きな態度で不平不満をぶつけてきた同僚・教師、年上だという理由だけで誹謗中傷の限りを尽くした老人など。真剣に復讐を考えた。だが復讐するにしろしないにしろ、賢いのか愚かなのか知りようもなく手を束ねて、いずれぼんやりと思い出すことになる。

▄▄█▀█●

 1月1日:「本のほうは、そうだなあ、いろいろあるからなあ。映画より歴史が長いぶん、名作が多いんだよな。まあ同じくらい駄作も多いわけだけどな。ははは。古典もいいし現代ものもいいのがある。難しいね。でもまあやっぱり『グロッソラリー ―ない ので ある―』だな。なにしろ俺が出てくるからな。ちょっと読んでみるか――」。

((^┰^))ゞ テヘヘ

 孤独とは、他者の存在を意識しながら、自分の身体性と向き合うことである。孤立とは、他者の存在を意識することなく、自分の身体性とも向き合わないことである。独りとは、他者の中にまぎれこみながら、自分にささやかな称賛を送ることである。一人ぼっちとは、他者の中にまぎれこみながら、自分を好きでいられる心情のことである。

 (φ(。・c_,・。)…フムフム

[怒りのランキング]
第1位:「一回やっただけで彼女面すんなよ!」
第2位:「メール遅いんだよ!」
第3位:「おまえか、校長室の花瓶割ったのは!」
第4位:「そんなとこに自転車止めるなよ!」
第5位:「広がって歩くな!」

コラァ( ≧∇≦)ノ。°゜°。。ヘ(。≧O≦)ノ

 自分らしさを痛切に感じる時というのは、どうにもやりきれない。個性と言えば聞こえはいいが、それよりももっと個人的なものである。特に顔見知りの前で、自分でも重々承知している性向を外部化した時などたまらない。自分らしさの表出は取り返しがつかない。無言の冷笑を招く。この事態を避けるためにも、よそいき用の自分が必須となる。

(ノc_,・;)ハア・・・

 リンゴ病総裁が、スペインの牛追い祭りでテンプテーション。背面跳びを決めたかと思いきや、ふんどしいっちょでダルマ職人を目指すそうだ。悲しいレトリック。両手両足を精一杯広げて赤ちゃんプレーのまねをするが、証券会社の外交員はスラングばかりで営業しポルシェで帰社する途中、地球が回っていたのでバックしていた。どんとこい。

(≧∇≦)ノ彡バンバン!

 たわいのないこと。大抵の人にとっては、問題にもならない対象だが、作り手にとっては制作を促進する一つの大きな導線となり、どんなことを「たわいのないこと」とするかが発話者のあるいは自分自身を測る材料となる。したがって神経質にかつ鋭敏な人間にならなければならない。森羅万象がたわいのないことだということを念頭に置いて。

(ー`´ー)うーん

 まあどうしたのケンちゃんそんなに……とんまな顔して。

あはっ♪(^∇^*)*^∇^) あはっ♪

 まさに現時点において自分を客観視することは可能なのか。客観的に見ているといっても、見ている主体は自分であり、そこには当然ドクサが入り混じっている。ということは、誰しも客観的的にしか自分を見ることができないことになる。「第三者的に」「客観的に」という言葉には要注意。話者の本音が出る態勢が整ったことを意味するからだ。

σ(´∀`me)??