吾輩は苦手である 7 

増井淳

 十数年前のこと。
 当時の職場は来客が多く、その日も何人かお客さんがいらした。それで、コーヒーを出したのだが、一人の方に「このコーヒーを作るのに、どれだけのヒトがひどい環境の元で苦労して栽培しているのかも知らないで、すすめようとしているのか」と詰問されたことがあった。
 吾輩はほとんどコーヒーを飲まない。栽培事情にも詳しくはない。だから、その場ではことばを飲み込むことしかできなかったが、今でもその時のことをいろいろ考えてしまう。
 たぶん、この方の言っていることは正しいのだろう。
 
 あちこちで戦争が起こると、すぐに「戦争反対」を叫ぶ人がいる。
 もちろん、吾輩も人を殺したくないし、殺されたくもない。
 ニンゲンとして「戦争は悪だ」と思う。が、「戦争反対」を言うことが免罪符になるとは考えない。
 ニンゲンは戦争をしてきたし、今もこれからも戦争をする可能性がある。そのことを忘れることはできない。

 作家の古山高麗雄に「日本好戦詩集」という短編がある。
 『ガダルカナル戦詩集』を書いた吉田嘉七が、古山あてに「日本好戦詩集」と題して十五編の詩を送ってきたという。
 この短編の中で古山は「反戦は好戦と共存し、しばしば反戦は好戦であったりするのではあるまいか」と書いている。
 吾輩はなぜかこの短編が好きで何度も読んでいるのだが、古山や吉田の言わんとしたことを受け止められているかどうかわからない。
 理解力がとぼしいのだろうが、ひとつ言えるのは、吾輩は「正義の人」が苦手であるということだ。

 コーヒー栽培の過酷さを言うにせよ、戦争反対を言うにせよ、それに完全に同意するという気持ちになれない。
 どうしてそうなのだろうと何度も考えている時に、鶴見俊輔さんの次のような文章を思い出した。

 「まじめな人は、自分が純一の状態で生きたいために、自分の中にせめぎあういくつもの欲求をそのままに見ることができない。一つの方向でおしきれなくなると、もう一つの別の方向にまっすぐ進もうとしがちである。それにくわえて、地上の何かの権威を、絶対的なものとして現実化しようとする」(『私の地平線の上に』)

 「旧約の預言者たちから、マルクスとレーニンまでまっすぐつづいている、地上のもっとも抑圧された人の立場から現在の秩序を批判し、これをくつがえそうとする努力に脱帽するし、その力のはたらく方向に自分をおきたいと思い、そのさまたげになりたくないと思うのだが、自分が正しいとしてつかみとった方針に反対するものは完全に抹殺するという思想構造に同調することはできない。自分にたいするうたがいが出てくる場所がそこにないように感じる。自分に対する批判者に、分があるかもしれないといううたがいのはたらく場がない」(『家の中の広場』)

 何か行動を起こすとしても、その背景にはさまざまな欲求や可能性があることを忘れたくない。
 正義や真理を自分がつかんだとしても、それによって自分自身を正当化することはできない。
 なぜ吾輩は「正義の人」が苦手なのか、そのワケが鶴見さんの文章を読むとわかるような気がする。