吾輩は苦手である 3

増井淳

 吾輩は音楽が苦手である。
 どうもニンゲンの世の中では、「音楽を聞く」というのが日常的なこととして推奨されているように思える。
 歩いていても走っていても車を運転していても、ともかくスキさえあれば音楽を聞いている人が多い。ほとんどの店がBGMを間断なく流している。演奏会なども毎日のようにどこかで開かれていて、そこにも多くの人が押し寄せている。
 しかし、吾輩はほとんど音楽を聞かない。イヤフォンも苦手なので、移動中に音楽を聞くことはない。
 音楽は苦手であるが、嫌いというわけではない。
 たまにはソファーに寝転んでCDを聞いたりもするのだが、どうも音楽というのがしっくりこない。
 小学校低学年のころ、かんたんなノドの手術を受けた。そのせいか声変わりをするまでずっとかすれ声だった。「大声を出さないように」と病院で注意もされたので、音楽の授業中は小さな声でしか歌わなかった。楽器も苦手だったので、授業をたのしいと思ったことはなく、音楽の成績はずっと最低だった。
 ノドが弱いせいか、演奏会の会場などのように空調の効いた密室にいると咳が止まらなくなる。よって演奏会などにもほとんど出かけない。もっとも、渡辺裕『聴衆の誕生』(春秋社)によると「十八世紀の演奏会ではむしろ聴衆がおとなしく聴いていないのがあたりまえだった」そうだし、会場に犬を連れてきたり、場内で煙草を吸ったりもしていたという。その時代に生まれていれば、少しは音楽とのつきあい方も変わっていたかもしれない。

 音楽は苦手だが、生きていると思わぬことが起こる。高校生の頃、突然、ギターが好きになりずいぶんと練習もした。ギターの音色は今でも好きだし、時々はギターを弾きたいと思う。
 その後、男声合唱団に入った。学校の授業で落ちこぼれていたので、その時、芥川也寸志の『音楽の基礎』(岩波新書)や「楽典」などで勉強し直した。吾輩の声がハーモニーの中に調和すると、得も言われぬ快感がある。合唱がたのしくて、しばらく夢中になったが、それ以外のことがおろそかになり、結局、合唱はやめてしまった。
 ところが、出版社で働きだして最初に編集したのは田川律『ぼくの時代、ぼくらの歌』という本で、これは音楽の本である。この本がきっかけでしばらくは田川さんが関わっていたコンサートにも出入りするようになった。まったく人生、何が起こるかわからない。
 さらに、中年になって混声合唱団に入ってしまった(いやはや)。その時もしばし合唱に夢中になり、声楽の個人レッスンも受けた。『コールユーブンゲン』や『イタリア古典歌曲集』などで練習した。楽器ができないので楽譜作成ソフトに音符を打ち込んで「音取り」もしていた。
 合唱練習を繰り返していると、「正しい音」というのがわからなくなってきた。たとえば意識して「ド」の音を出しても、「正しいドの音」より吾輩の声は少し低めに響くというのだ。その低めの「ド」を少し高くするのが吾輩には上手くできなかったし、今もできない。
 話はそれるが、合唱をやっていたころ、何度かプロの演奏家に接する機会があった。そういった時、大方の人は演奏家を「先生」と呼んでいたのだが、吾輩はプロというだけで人を先生と呼ぶのはいかがなものかと考える。先生というのはやはりそれなりの人格がある人のことを言うものではないのか。演奏家のプロフィールに「◯◯氏に師事」とかやたらと書いてあるが、あれも腑に落ちない。これは音楽の世界だけのことではないだろうが、吾輩の経験したなかでは音楽の世界での「先生」の乱発は、いかがなものかと思われたことの一つである。

 結局、音楽との長いつきあいでわかったことは、吾輩には「音感・リズム感がない」ということだ。
 たとえば、楽譜を初見で歌うという機会が何度かあったが、音感のない吾輩には初見で楽譜どおりの音を出すことは不可能なこと。それは、鉄棒の「逆上がり」ができない子どもに向かって「月面宙返り」を要求するようなものだ。
 こういった音楽に対する絶望的な思いを何度か経験すると、音楽がない生活に慣れてしまう。むしろ、音楽がない生活こそ、しずかでおだやかなものに思えてくる。
 たとえば、テレビでメジャーリーグの試合と日本のプロ野球の試合を観戦するのだが、メジャーの球場では応援の際に楽器などを演奏することはあまりない。ところが、日本では楽器やら声援が試合が終わるまで鳴り止まない。日本の試合では打球の音や選手や球審の声はほとんど聞き取れない。これでは応援なのか騒音なのかわからない。
 音楽がなくとも、耳をすませば日常にはさまざまな音があふれている。人の話し声、猫の鳴き声、鳥や虫の音、風や雨の音、車の音などなど、さまざまな音が聞こえる。
 そもそもほとんどの生き物は、音楽なしで生きているではないか。
 吾輩の家の猫など、ほんの小さな物音にも敏感に反応するから、ニンゲンの方もできるだけしずかに暮らすよう気をつける。それがだんだんと日常化し、音楽なしに慣れてしまった。こういった生活こそ、生き物としてはまっとうな道ではないかと吾輩は確信する次第である。
 そうはいっても、ときどき、風呂の中で歌を歌ったりはするのだがね。