インドネシアで住んだ家(3)2軒目の家

冨岡三智

さて今回は2回目の留学で住んだ家について。前の留学帰国から1年半後に、また同じ大学に再留学することになった。今回(2000年2月〜2003年2月)も住んだのはスラカルタ市カンプンバル地域だ。前回お世話になった家の管理人さんに事前に連絡して、この地域内で家を探してもらっていた。決めた家はロンゴワルシト通りを挟んで前回の家と南北にあり、RW(〇丁目のようなもの)が違うだけ。前回は市役所の裏側で、今回は中央郵便局の裏側にある。今回の家も水道、固定電話、2階に物干し場(にできるスペース)付きのこぢんまりした物件だ。壁や床、ドアなどの素材は前回の家の方が良い材料を使っていたが、カマル・マンディ(トイレ+浴室)だけは新しくタイルを張り替えてくれていて清潔だ。また、今回は家の中に洗濯場もあって便利である。何より、大家さんの家も事務所もごく近くにあるので、何か困ったことがあるとすぐに修理に来てくれるのもありがたい。

大家さんはフェンスを作る鉄工所を経営し、周辺にいくつも貸家を持っていたが、他にも手広く事業をしていたように思う(詳しくは忘れてしまった)。2000年の夏にスラカルタ王宮広場で開催されていた市のイベントの実行委員長を務めていたから、それなりの顔役だったのだろう。独立記念日には私の許にもお祝いの弁当を届けてくれたり、娘さんの結婚式では人並み以上の豪華な料理をふるまったりと、持てる者としてふさわしい振る舞いの人だった。

大家さんの事務所には事務の女性と従業員の男性の人がいつもいて、私はここで毎月の電話代、電気代、水道代を支払っていた。大家さんはこれらを全部銀行引き落としにしているので、全部の引き落としが済んでから合計金額を事務所に支払いにきてくれという話である。これは非常に助かった。というのも、前回は毎月これらを別々に支払いに行っていたからなのだ。電気代は指定の銀行で毎月10〜20日の間に、水道代は水道局で毎月7〜20日の間に、電話代は電話局で支払う(期間は忘れた)。しかも支払いは午前中のみ。授業の合間をぬっていくが、特に水道代と電話代の支払いは1時間以上も自分の番号札が呼ばれるのを待たなければならず、大変疲れるのだった。

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カンプンバルは都心部だから、近所に住んでいる人は町中で商売している人が多い。東隣の一家は夜にスラマット・リヤディ通り沿いでアヤム・バカール(鶏の照焼)屋を開いていたし、西隣の一家は夜に警察風紀部(のような部隊がインドネシアにはある)事務所の前でワルン・スス(牛乳の屋台)を開いていた。どちらも昼頃から仕込みを始めて夕方に屋台を引いて「出勤」し、夜中の12時過ぎに戻ってくる。アヤム・バカール屋には小学校に上がったばかりの女の子がいた。他にも子供がいたのだが、この子だけ舞踊が好きで、私がドアを開けて練習していると覗きに来ては、「ミチはLとRの発音の区別がまだできないけど、気にしなくていいのよ。私たちインドネシアの子供も、学校で勉強してからできるようになったのよ。」などと、関係あることないこと、アドバイスを私にしたがる(笑)。この一家はイスラム教徒で、父親は断食月の夜など、商売を終えて帰宅したのち、よくベランダでお祈りの朗詠をしていた。私の家の方に向かって朗々と詠うものだからうるさいのだが、なかなかの美声で聞かせるものがあった。

一方、ワルン・ススの一家は老夫婦+イワン(息子)1人で屋台を営んでいた。お昼に牧場から牛乳が届き、煮沸をして夜に屋台に出す。牛乳屋台はスラカルタの名物で、男共も酒ならぬ牛乳を飲んで盛り上がる。イワン曰く、牛乳は毎日煮沸しないといけないから、新鮮な牛乳が手に入らないと商売ができないそうだ。スラカルタは近郊に牧畜の盛んなボヨラリ県があるからスス屋が成立するらしい。その煮沸した牛乳の量が多いと、よく鍋一杯分くらいお裾分けしてくれた。しかし、日本の薄い市販牛乳と違って、黄色みがかった薄い脂肪膜ができるような牛乳だ。コップ1杯も飲むとおなかがいっぱいになる。イワンはジャワの男らしく鳥を飼うのが好きで、声の良い鳥をいろいろ飼っては、うちの家の軒先に吊るしていた。私としては別に良いようなものの、軒先は共有ゾーンらしい…。この鳥たちは、宮廷舞踊曲を練習しているとやたらに甲高い声で啼き始める。どうやら、クプラという木槌の音(踊り手に合図を送る楽器)が鳥に恐怖心や警戒心を起こさせるようなのだ。そんなわけで、軒先に鳥がいると、クプラを使わない舞踊の練習に切り替えることになる。普通のガムラン音楽には鳥たちは反応しない。

このワルン・スス屋の住む家の母屋には年配の夫婦が住んでいた。ちなみにスス屋一家もその年配夫婦もカトリック教徒。年配夫婦のおじさんはクリス(剣)の収集が趣味で、ジャワ歴のクリウォンの金曜日(聖なる日)にはいつもクリスの手入れをしていた。男性舞踊の稽古で私がクリスを使うのを見ていたのか、帰国の時に1本餞別にとクリスをくれた。さらに、それ以外に居候のおじいさんがいた。このおじいさんが亡くなってこの家の人たちでお葬式を出した時の話は『水牛』2011年2月号の「無縁社会」で書いているが、実はスス屋のおばさん以外にこのおじさんの身元を知る人がおらず、連絡した実家の方もお葬式に来なかった。私は葬式に参列して埋葬まで立ち会ったが、身寄りがない人のお葬式を共同体で出すという点にインドネシアの地縁社会のあり方をしみじみ感じたものだ。

イスラム、カトリック、鳥、牛乳、クリス、子供…、今思えば、この地域にはジャワ文化のエッセンスが凝縮されていたなあと思う。