ミシガンより

冨岡三智

今アメリカのミシガンに来ている。3月29日〜30日の民族音楽の学会で論文発表するのが第一目的なのだけれど、その学会に合わせてアレンジされている、ミシガン大学のジャワ・ガムラン音楽グループのコンサートも実は大きなお目当てであった。

ミシガン大学ではインドネシアからガムラン音楽と舞踊の指導者を夫婦1組で1、2年という単位で招聘し、指導に当たらせている。ここ10年以内のことに限っても、ソロのクラトン(王宮)の血筋にあたり音楽も舞踊もできるB氏が元宮廷舞踊家の妻と一緒に2001年〜2003年頃に赴任し、入れ替わりに今度はソロの芸大教員でやはり音楽も舞踊もできるW氏が舞踊家の妻と一緒に赴任し、W氏にダブって私が男性舞踊を師事していた芸大の先生P氏も娘を伴って1年間赴任した。私は特にP氏からミシガンでのビデオを見せてもらったり話を聞いたりしていて、その活動ぶりに興味を持っていたのだった。

ミシガン大学のガムラン・プログラムは1967年に始まり、今回の学会で基調講演をしたジュディス・ベッカー教授の下で開花した、とコンサートのチラシにはある。今年は何らかの理由で誰も招聘できなかったそうで、由々しき事態だというのが関係者の反応だった。現地から音楽家を招聘して指導に当たらせるというのは、アメリカではミシガン大学だけに限らないが、日本ではほとんど考えられない。日本では1980年前後に東京芸大がインドネシア人講師を5年間日本に招聘したという例があるばかりである。

  3月27日 ミシガン着

私がはるばる海外から来るというので、学会の幹事長自らデトロイト空港まで迎えに出迎えてくれ、その晩のミシガン大学でのリハーサルに連れて行ってくれることにもなった。この日は夕方から雪が降り始める。今年は異常気象で例年より雪が多かったらしく、3月末に雪が降るのは異例だということだった。結局リハーサルは急な予定変更のせいで、予定時間に予定の場所(明日のコンサート・ホール)ではなかった。けれどグループを指導している大学院生で、昨年もソロに短期で勉強に行ったという人と連絡がついて、その人がいるガムランの通常の練習部屋に向かう。

練習部屋は音楽学部棟の地下にある。リサイタルホールの他にもオーケストラ用、室内楽用などの小さな練習ホールが3つくらいあり、民族楽器の展示などもある。ガムランの練習部屋はソロの芸大の音楽科の教室よりは小さいけれど、じゅうたんの上にフルセットが広げられ、座布団が敷かれ、ホワイトボードやお茶のポットなども並んでいる。なんと贅沢な練習部屋だろうと思う。壁には今までに招聘したインドネシア人舞踊家や音楽家らの写真、このグループの公演ポスターなんかが額縁に入れられて、3段に展示されている。上で書いた以外にも多くの知った顔ぶれが見つかる。これだけの人を今まで招聘してこれだけの公演をやってきたという歴史の深みに圧倒されてしまう。

  3月28日 ガムラン・コンサート

今日の予定は10:00〜ガムラン楽器をコンサート・ホールに移動。14:00〜16:30リハーサル。17:30〜スラマタン。20:00〜コンサート開始。コンサート・ホールはヒルズ・オーディトーリアムという所で、巨大で壮麗な建築で、天窓もあり、舞台奥には古いパイプ・オルガンが設置されている。このホールは大学の中心部にあって、シンフォニー・コンサートをよくやっているらしい。

私は14:00のリハーサルから見せてもらう。今回の公演ではアンダーソン・サットンが特別ゲストで参加した。この人は1982年にミシガン大学で博士号を取ったガムラン音楽研究者・演奏家で、今は違う大学で教えている。私も会いたかった人だ。結局ずーっとインドネシア語で話す。スラマタンには、ナシ・クニン(黄色い儀礼用のご飯)やらインドネシア料理が並ぶ。インドネシア人の人が何人も関係者の妻や夫にいて、その人たちはこういうことがあると食事を用意したり着付を手伝ったりするみたいだ。サットン氏が乞われてスラマタンで挨拶し、黙祷ののち円錐形に盛られたナシ・クニンのてっぺんを切るという儀礼をする。氏によれば、自分の大学では公演前に必ずスラマタンをする、ミシガン大学では時々やっている、ということだった。私が以前所属していた日本のガムラン・グループでは、スラマタンはやったことがなかったなあと思う。もっとも、日本人同士、手探りでガムラン音楽をやっていた時期だったから仕方なかったのだけれど。

その後は着替え。どうせ公演まで2時間くらいあるから手伝う。演奏は、今年からガムランを始めた初年度グループと、その上のクラスの2グループが交互にしたのだが、上のクラスの人たちはカイン(ジャワ更紗)にクバヤ(女性の上着)かビスカップ(男性の上着)を着るという。金髪の人が多いから、ジャワで使う黒髪のサングル(かつら)はつけないで、地毛で逆毛をたててそれらしく結い上げる。そこは私のお手の物ということで、5人分くらいの髪結いを手がける。助っ人のインドネシア人女性は2人いたけれど、髪結い以外に着付もしてあげないといけなかったから、この2人で全員分をやっていたら絶対に間に合っていなかっただろう。というわけで非常に感謝される。

公演のレベルは、正直なところそれほど高かったわけではない。けれどベテラン指導者がいない――指導している大学院生も専門はインドネシア音楽ではない――ことや、皆の経験年数を考えれば、かなり健闘しているように思える。サットン氏の助演(太鼓、グンデル・パネルス)があったのも大きい。それにホールの音響がすばらしかった。リハーサルの時は楽器のすぐそばで聞いていて、演奏のアラが目についたのに、本番にホールの真ん中辺りに座って聞いていると、音がふんわり豊かに聞こえる。音響も建築も良いホールで、舞台裏をいろんな人に助けてもらって、スラマタンをしてコンサートができるという彼らの環境がなんだか羨ましいなあと思える。

  3月29日〜30日 学会

学会はミシガン大学ではなくてイースターン・ミシガン大学で行われる。学会はなんと両日とも朝の8:30がセッション開始、初日の受付とコーヒー・タイムが7:30から始まるという日程で、インドネシア並に朝が早い。けれどアメリカの人文系の学会はたいてい朝早くからやるものらしい。午前と午後に一度ずつコーヒー・ブレークがあり、昼食も用意される。結局、会場のスペースからは一歩たりとも外へ出ないで過ごす。食べ物と飲み物が大量に用意されていて驚くけれど、アメリカの学会ではそうするものらしい。

自分の発表については、緊張した上に語学力のなさもあって出来は反省することしきりだったのだけれど、日本の人たちとは違った観点から有意義なコメントをたくさんもらえ、同じインドネシア研究をしている人たちや、また日本留学の経験のある人たちと知り合えたことは大きな収穫だった。当初は、アメリカでこんなにインドネシア語や日本語で会話できる機会があるとは、夢にも思っていなかったのだ。インドネシア研究者といっても、その調査年代も1960年代から2000年代とばらばら、調査地もジャワ以外が多くてばらばらというわりには、共通のインドネシア人の知人がいたり留学生の友達がいたりして、あらためて世界の狭さを痛感する。

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あっという間に2日間の学会は終わり、この原稿を30日の夕方に書いている。日本はここより13時間進んでいるので、いま日本では31日の早朝になっているはずだ。明日31日昼にここを発って、日本に着くのが4月1日の夕方。エープリルフールということで、なんだか1日ごまかされているような気にもなる。短い間だったけれど、そして英語にも論文にも自信はなかったけれど、思い切って来てよかったと思っている。