014 桜のおなら ――伊勢物語から源氏物語へ

藤井貞和

(竪穴住居にて)お父さん「ちょっとそとに出て、こいてくるら」
と言ったかどうか、狭い穴から吹き出すことを「こく」というのは、
数千年の歴史のある縄文語彙だと思います。 「み」にたいして、
「から、へ」という、それらは旧来のことばで、
だいじな古文の一環です。 『伊勢物語』は歌語りだから、
まじめなふりをして、とんでもない古語がうち混じる。
  いにしへのにほひは いづら。桜花。
  こけるからともなりにけるかな  (六十二段)
漢字に宛てると、「去にし屁の臭ひは いづら」かな。
  出ていったにおいはどなたさんの?
  あなた、桜花さんね! (すみません)
  放(こ)き出している空気となってしまいましてなあ
「こけるから」です。 桜の優雅な文学と思っていたら、
スカトロジー歌なのですね。 返し歌も当然、スカトロです。
  これやこの、われにあふみを遁れつつ、
  年月ふれど、増さり顔なき
  (コリャ、これなのでは。 私に出逢う実(み)よ、
   逃げながら大きな顔しないでね、年月を経ても)  
なぞなぞでしょう、すぐにはわかりません。 裏をさぐると、
「あふみ」は「から」(空気)にたいして「み」(実質)です。
身をはなれて厠(川屋)へ逃れ(流れ)出たばかりの実質は、
自身でしょうか、それとももう別ものでしょうか。
百人一首の伊勢大輔歌はこれらと同想です。
  去にしへのならのみやこの、やへ桜、
  きょうここのへに、匂ひぬるかな
桜のおならだから、いい匂いなのですよ。 ここからが大問題です。
『源氏物語』の匂宮の「匂」はなんの匂いでしょう。 もしかして、
桜のおならではあるまいか。 そして薫の君の「薫」は、
蝋梅でないにせよ、濃艶な梅が香ではありませんか。

(和歌をめぐって、わいわいがやがや、談義する歌語りだから、とんでもない五七五七七が混じってくる。桜のトンネルをとおりながら。)