189 花かずにしも もとな

藤井貞和

へぐり(平群)のいらつめの秀歌を、
書き出してみます。 「麻都能波奈 花可受尓之毛
和我勢故我 於母敝良奈久尓 母登奈佐吉都追」、
まつのはな、花かずにしも わがせこが、
おもへらなくに、もとな さきつつ――

あなたは万葉集から、この秀歌を、
書き出しました。 夕日があかあか。 もう、
なぜ、立ち止まるのだろう、
万葉は四五〇〇首をかかえている、
世界有数のアンソロジーなのですよ。

いちいち立ち止まってはいけません。 ざっと、
読み明かして、あるいは暮れゆけば、
ぱたっと閉じて、あなたの時間へ、
帰らなければなりません。 歌集から離れて――

いらつめの恋歌は、花かずでしかない、
むかしの少女の物語ですよ。 あなたは、
あなたの恋歌に、世界への恋に、
心を尽くさなければならない、もとな(わけもなく)


(巻十七、三九四二歌。折口は〈この松の花の譬喩は、当時の譬喩としては破天荒のものであったのだろう。佳作」〉とする(口訳万葉集)。新大系を引いておこう、〈松の花を詠むのは、万葉集ではこれのみ。晩春に咲く目立たない花ではあるが、前歌の「待つ」に続けて、「松の花咲く」とは待ち続けるばかりということの譬喩であろう。「花数」は、花として数え挙げられるほどの花の意。他に例のない表現。「思へらなくに」は、「思へり」から「なくに」に続く形。万葉集では唯一の例」〉とある。平群女郎の手になる、佳作を越える傑作である。)