202 海の道の日(原ポルトガル語)

藤井貞和

3月30日、バグダッドへの空爆はさらにはげしく、市の中心部で四つの爆発があったようだ。前日、空爆されたある市場では55人(他の情報源では58人)の市民が亡くなった。

日本の外務大臣川口順子(よりこ)はNHKのある朝の番組で言った:「戦争が終ったときは四歳だった。空襲のとき逃げたことを覚えている。下で怖がっている人たちのことや戦っている兵隊の辛さを思うと、テレビをちゃんと見ることができない」。

本当? 彼女には空襲の記憶があるの? 番組を見た人たちやこのことを後で知った人たちは少し驚いたかもしれない。日本の総理大臣小泉純一郎は川口とともにイラクへの武力行使を容認し、オープンにアメリカ(とイギリスと)を支持した。

川口の言う空中襲撃は1945年の襲撃のことである、当然ながら。あの戦争のことに関しては空中襲撃というのに、今度の戦争に関しては空中爆撃という。

戦後55年間を生きた人たち、終戦後生れた人たち、もっと若い人たち、戦争についてのニュースを聞いたり見たりする経験が初めての人たち、高校生、中学生、そして小学生まで、すべての人が戦争について考える権利がある。

戦争で戦った人たちや空襲の記憶をもつ人たちだけが戦争の経験を生きたというに過ぎないならば、終戦後に生れた人たちは戦争を知らない世代ということになってしまう。

私たちは戦争を知らないのか? 学校で習う歴史や毎日メディアから伝えられるニュースは、戦争を遠いもの、経験できないものとして見せるのか?

戦争にまきこまれていない地域が、ある限られた地域の戦争に関して無関心でいることはできない。ある特定の地域の戦闘であってもそれは世界戦争である、つまり、世界中をまきこむ戦争である。私たちはこれを自覚しなければと思う。

私たちは世界戦争を生きているのではないか? メディアの問題――検閲、かたよった情報の操作、確かな情報の不足のため間違っているかもしれない、挑発的な解説、急に忙しくなった軍事に詳しい専門家たち、戦争批評者になり、多くの解説をうみだす分析者たち。にもかかわらず、このようなメディアを経験することは戦争の経験ではないのか?

小泉と川口の武力行使容認は罪であると言える。しかしこのような批判に対する答えが「彼らはただ保守的な政治家としてふさわしい選択をしただけだ」――であるならば、私たちはさらに有効な反論を見つけなければならない。なぜなら、日本がこのまま武力行使を支持し続けるならば、高い代償を払うことになる。

でも、このことに気づくほとんどの人たちはこの経済援助を国にとって有利だと考える。政治家はこのように言い、支持を得ようと、かんたんに影響されやすい日本社会に訴える、「私たちは戦争に反対だが、現在の危機はイラクによってひきおこされたのだから、私たちは武力行使を支持する以外に選択はなかった」と。「日本にとって、アメリカを支持する以外に選択はあるのか? 現実的な決断だった」と。

イラク復興に協力したいという願いがあの国を助けたいという純粋な気持ちからも発しているということを認める。そして戦争に反対だと言うことは決してまちがっていない。日本はアメリカになんでも従うからアメリカのサルだと言われているようだ。今後、日本社会や日本人がテロ攻撃の的になる可能性は大きい。もし無防備に外国を訪れる日本人観光客が誘拐や攻撃の的になったなら、日本政府は自衛隊を派遣しなければならなくなるかもしれない、そして、後悔するようになるかもしれない、「こんなことなら、アメリカを支持するのではなかった」と。

このような時期に特に反米だと言い始める解説者を見ることは耐えられない。これらの解説者は専門家のように見せ、風潮をつくる。このような日本社会の傾向を好む人もいる。このようにして国民感情はつくられるのだろうか。

「私たちは反米である」――これが討論などの中心的なテーマだ。反米であるというのは現在の国民感情にアイデンティファイしている以外の何ものでもない。どの国でもこのような経験をしているだろう。風潮が反米であったり、その風潮が過ぎ去ったり。東アジア諸国の反日感情を知るならば、少しでも常識のある人ならば国民感情をはっきりあらわして反米だなどと言えないだろう。

あるテレビの討論では次のテーマが与えられた。1.日本が武力行使を支持したことについてどう思うか? 2.今後、日本はどうすべきか? 参加者は朝までこのテーマを討論していた。あなたたちもこれらのテーマを学校で、家で、仕事場で議論していると思う。

しかし、なぜ別な問いをたてないのか。例えば、3.空爆の一番の的になっているイラク市民のことを第一に考えると、彼らの恐怖のことを思うと、国の利益を考えるより先に、人間として、考えることとすることがあるのではないか。

4. 戦争の恐怖があるとして、その恐怖が想像であっても現実であっても、そして戦争以外に選択がないとしても、実際の攻撃は避けなければいけないこのような思想を表現すること。

5. 戦争に反対であること、または非暴力の考えは練習によって得られる思想であり、高度な人間的智恵である。私たちは国民感情が武力行使を支持する方向へ向かわないためにも、このような考えを洗練しなければならない

6. でもその一方で、私たちは言わなければならない:平和に慣れっこになることは何がいけないの? それはいい面もある。私たちはブラジル住民が百年以上も戦争を知らないということ、そして平和に慣れているということをうらやましいと思わなければならない。また日本国憲法を思い出すのもよいだろう。

7. 例えば、沖縄の歌手、きな・しょうきちはイラクへ行って表明した:武器を楽器に代えましょう。世界中で何万人もの人が街へ出て戦争に抗議をした。インターネットでは戦争反対のメッセージやイラストが流れ、人間の盾となるためにイラクへ行った人もいる。それぞれの人がそれぞれの方法で、戦争反対、または非暴力を訴えている。人文字、反戦広告。人間の尊厳の名においてこれらすべてを認めなければならない。小さな行為でも、思想は体を動かすこと、そして声からはじまる。

8. アメリカでもイギリスでも武力行使に反対する人たちがいるということを想像する権利。パレスチナ、アラブ諸国に生きている人たちのことを想像する時間。中欧や東欧に広がっている悲しみを想像できる可能性。東アジアの海、沖縄東海岸のジュゴンを想像する教室。

9. 国の利益よりも大切なものがあると子供に教えることのできる人間の先生。このような先生がもっといてほしい。不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあるということを教える人問の先生。

10. 国民感情が高まっているとき、理性が示す本当の価値は国民感情にはないとはっきり言うことができる、日々を生きる人たち、人間の芸術家、人間の思想家たち。

最後に、人間の兵士たちへ、もし思想が、あなたたち兵士たちが持つもっとも人間的なものをなくそうとしたら、あなたたちはその思想にさえも銃をむけるの?
 

(〈富山妙子「海の道」の制作を見ようと高橋悠治、小林宏道らが火種工房へあつまった雨の夜、2003年4月4日、藤井貞和(試案)〉とあるものの、趣旨をつかみにくく、私の文とすこし違う。ポルトガル語(ブラジルでの諸言語)の併記があり、Eunice Tomomi Suenagaが担当する。しばらく富山さんについて書きます。)