それは明け方に突然きた。
寝入って1時間ほどたったろうか、目が覚めてしまい眠れない。目をじっと閉じたままでもいっこうに眠れない。体勢を変えても眠れない。あぁ、なんで。遅くに飲んだお煎茶がいけなかったか、ずいぶんと人に会って人当たりしたか…考えるほどに頭がさえざえとしてくる。右に寝返り、左に寝返り、うつぶせ、仰向け…そうこうするうちに、うわぁ何これ!?ぐるぐると体が回転しだした。灯りをつけると、天井がぐわんぐわんまわる。からだがどこかに持っていかれそうな感覚に何度か耐えるうち、猛烈な吐き気に襲われた。床を這っていきトイレで吐く。なんとか寝床に戻り横になると、前後左右がぐしゃぐしゃになり、つぶされるような怖さにじんわりと冷や汗が出る。突発的な吐き気がまたきて、ゴミ箱に吐いた。
翌日は丸一日静かに横になっていたが、よくなる気配がないので、かかりつけの内科に行った。「吐き気もめまいもひどい」と訴えると、なじみの医師に「どっちが先?ちゃんと時系列に沿って話して」と問いただされる。結局、脳神経外科にまわされ、MRIまで撮って、良性の発作性めまい症という診断がついた。手渡された解説には「安静にしてはいけません。吐き気がきても頭を動かしましょう」とある。耳石が三半規管に入り込んでめまいが引き起こされるらしく、耳石を早く外に出すのが症状改善のカギらしい。
友人知人に「めまいが…」と話すと、この発作性めまい症の経験者のなんと多いこと。「私もだよ」「ああ、耳石でしょ」「頭振って治すんだよ」と返される。中高年なら誰でもかかる風邪みたいなものなのかもしれない。
めまいは薬で治まったが、10日くらい、ふわふわするような、たよりないような、そして静まったもののからだの奥に吐き気が巣食っているような感じが抜けなかった。拠って立つところがふにゃふにゃしていているというのか、自分の輪郭がぼやけた感覚があって、目の前の風景も少し引いたところから眺めているよう。
あぁこの感じには覚えがあるとたぐりよせた記憶は、私の幼年期の持病「自家中毒症」。正式には「ケトン血性嘔吐症」といって、ストレスや疲れが極限までくると嘔吐を繰り返す病気だ。血中のブドウ糖が不足すると脂肪がエネルギー源になるが、そのときケトン体という嘔吐を引き起こす物質が生成されるらしい。やせ型で過敏で興奮しやすい子どもに多いといわれることもある。発作がおきると顔色が悪くなりぐったりしてきて、気づいた親が過剰に反応すると、それが子ども心にさらにつらい緊張になった。だから、調子が悪くてもなかなか言い出せず、ぎりぎりまで我慢して、しまいに吐く。小さかったころは、道端で、バスの中で、寝床で、突発的に吐いていた。親に背中をさすられながらかかえる洗面器の色模様まで鮮明に覚えているのだから、嘔吐はなじみの行為だった。
だから、発作に気づいた親に連れられて病院に行くときは、これで楽になるんだ、とどこか安堵感さえあった。小児科の診察室には白衣を恐がる泣き声、注射から逃れようとする叫び声がつきものだけれど、いつもだまって固いベッドに仰向けになり、看護婦さんに右腕を差し出した。肘を太いゴム管でしばられ手を握ると血管が浮き出て、そこに腕と同じくらい太いブドウ糖の注射を受ける。淡い緑色のガラスの注射器には黄色い液が充填されていて、注射針が刺さると自分の血液がいったん塵のように注射器に吸い込まれ、そこからまた液といっしょに体内に戻ってくる。少しずつ少しずつ液が少なくなっていくのを見ているうちに、吐き気はおさまり気分がよくなってまわりを眺める余裕が生まれる。南向きの部屋には陽射しがさんさんとあふれ、窓辺には流しがあり器具が並んでいて、水道の蛇口や注射器を消毒する四角い鍋のような器具が光を受けてきらきら輝いている。不思議な形の帽子を頭に乗せ、糊の効いた真っ白な服と白い靴で光の中を動きまわる看護婦さんたちの姿をいつもうっとりと夢でも見ているような気持ちで眺めた。
最初の発作は2歳か3歳のときだった。嘔吐が止まず近所の医院では手に負えないといわれ、駆け込んだのは宮城県庁裏の新津小児科。一目見て医師は「自家中毒症」といい、ブドウ糖の注射をしてくれた。まったく泣かない女児に、先生は「女傑だな」といったらしい。母から何度も聞かされた話なのだが、このときなのか、その後何度かお世話になったときなのか、親に抱かれ見上げたこの小児科のおぼろげな記憶が残っている。背の高い緑の樹木の向こうに見えた鉛色の空。ゴッホの描いた糸杉の上に広がっていたような不穏な印象の空が、いまも目の裏に貼りついている。
この新津小児科は医院はやめたものの、建物はビル街の中に昭和30年代のタイムカプセルのようにいまも残っている。敷地はヒマラヤシーダーにぐるりと囲まれ、窓枠が淡いエンジ色の出窓のある木造の診察室も見える。幼い私が見上げたのはこの建物と木だったのかと、通るたび記憶と風景をつなごうとする自分がいる。
「自家中毒症」は10歳になるころには、嘘のように治まった。からだができて筋肉量が増え自律神経が整って内臓が充実してくると、自然と消える症状のようだ。まだことばをしっかり習得しておらず、ことばで自分を表現できないから一身にストレスの直撃を受けてしまうのかもしれない。吐き気に襲われていたのは、ひとりで本を読み進められるようになる前のことだ。
治まったとはいえ、いまになっても頼りないからだで生きていた感覚が呼び戻されることを思えば、経験としては決して小さくない。どこか暗いところから遠く世界を眺め見ているようだった感覚が、内気な少女をつくったのかもしれないと思ったりもする。
ところで、最初のめまい症の発作は3月末だったのだが、5月中旬に再びそれはやってきた。2回とも長い緊張がゆるんだ2日後の明け方。もしや明け方というのは血中のブトウ糖が少なくなる時間帯だからだろうか。極度の緊張のあと、というのも「自家中毒症」に重なる。いったんは充実した身体機能が下降線をたどるようになり、幼いころの素地があらわれてきたのかもしれない。幼年期と老年期は重なるといわれるけれど、私のそれは吐き気でつながるのかも…。