仙台ネイティブのつぶやき(101)キミにお別れ

西大立目祥子

ついに愛車のマツダ・デミオにお別れするときがきた。16年乗り、11万キロ走った。まわりには中古で買って20万キロ走ったなどという剛の者が多いので、走行距離で驚かれることはそうないのだが、さすがに“16年”には、がんばりましたねぇ、と反応が返ってくる。頑張ったのは私じゃなくてデミオだ。

いい車だった。軽やかでレスポンスがよく、小さいから小回りがきく。高速にのるときもすぅーっと加速できて、追い越し車線に入っても何の不安もない。イタリアの男の子のような名前も気に入っていた。見た目は確かにずいぶん疲れた感じになってはいたものの、エンジンのトラブルはないし、あと2、3年は乗れるかなと考えていたのだ。しかし、この春の点検のとき、ちょっと工場までいいですか、といわれリフトに上げられた車体のお腹を下から見上げると、後輪近くのフレームが腐食して小さな穴が2つも空いているではないか。半年前にはなかったものだ。気づかぬうちにつぶれていた腰椎のレントゲン写真を、いきなり見せつけられたような気分である。老体はいつのまにか取り返しがつかないほど傷んでいたんだなぁ。担当の人は、来年秋の車検は無理でしょうという。お別れが近いことを否が応にも知らされて、そろそろといたわるように運転して帰ってきた。

30代半ばに運転免許を取った私にとってデミオは初めて自分で買った車だった。1代目は父のお下がりのトヨタ車で、これも壊れるまで乗った。バブル経済のころは、とろんと丸味を帯びたデザインの車が全盛だったけれどその前のデザインで、白い四角い箱のようないかにも古ぼけたセダンに、もしかしてクラシックカーに乗っているの?といわれたことがある。2代目は車好き弟のお下がりのスバル車で、ターボエンジンにデカいマフラーが付いていたのでエンジンをかけると、遠くまで響くドッドッドッという低い地鳴りのような音を出した。私の顔と車を見比べ、驚くような表情で、もしかして改造車?と聞かれたことがある。イメージを裏切るのは、まぁけっこう楽しくはあったけれど、3代目にしてようやく分相応の車に出会えたのはうれしかった。

何といってもこの車がなかったら、県境を越えてひんぱんに打ち合わせに行ったり、山間地に入り込んで古老の話を聞いたり、テントを積み込んでいって主催する市の事務局を設営したりは、とてもできなかったと思う。地方の細腕フリーランス稼業は、きびきび働き支えてくれる車があってこそだ。遠く雪山の写真を撮るために、オレンジがかった赤茶色のデミオを路肩に停めるとき、この色ならあやまって谷底に落ちても発見は早いよね、と何度思ったことだろう。もちろんそれは他人から視認されやすいということでもあって、出先の町で、さっき国道ですれ違ったとき大きなあくびしてたから、相当疲れてんだなぁと思ったよ、などといわれたりもしたのだけれど。

この16年は、人生後半真っ只中の私の、そして大災害に見舞われた仙台の、何とも先の見えない順調とはとてもいえない日々ともぴったり重なっている。車は移動するためだけにあるのではない。母の介護を担うことになった私は、毎晩母といっしょに食事をし、洗面をさせ、着替えさせてベッドに送り込み、すやすやとした寝息を確かめると、帰り支度をし玄関の鍵をかけてデミオに乗り込み、人心地をついた。家までは車で15分にも満たないのだけれど、ゆっくりと上ってくる細い月を眺め、人通りのない暗い道を好きな音楽を聴きながら走ると、ようやくじぶんを取り戻せるように感じるのだった。

大津波に沿岸部がのまれたときは、慣れ親しんだ集落がどうなっているのかを確かめたくて車を走らせた。途中で通行止めとなっていてそれ以上は進めなかったが、フロントガラスの向こうには瓦礫が累々と連なる変わり果てた風景が広がっていて、打ちのめされた気分でUターンすると、遠くには青々とした空の下に白い蔵王連峰が神々しい姿を見せていて、あまりの残酷な対比にしばらく言葉を失ったことがあった。

不調の飼い猫を病院へ運ぶときは、助手席にキャリーケースを乗せシートベルトでしっかりと固定してアクセルを踏んだ。初めは嫌がってギャーギャー叫んでいた猫も日を重ねて病状が進むと、何かに耐えているかのように黙りこくる。闘病生活が長かったサスケのときは、2年以上も通院しただろうか。帰る途中、可哀想になって駐車場に車を停め、やせ細った体を膝に抱き上げて、もう病院はやめようと話しかけたこともあった。

もちろんよそ見はできないけれど、車を走らせながら窓の外に見ているのは街に暮らす人々の姿であり、移り変わる社会の風景だ。
近くの整形外科の駐車場では、交通整理のおじさんが立って来院者はもちろん通行人にもあいさつをしている。いつもとっても機嫌がいい。となりの保育園は夕方になるとお母さんやお父さんが迎えにきて、うれしそうな子どもたちと手をつなぎ夕闇の通りに消えていく。最近はお父さんのお迎えが多いよね。角の魚屋のおじさんは店を閉じると、併設する居酒屋のカウンターで飲み始め、ときどきテレビを付けたままつぶれている。信号待ちのときにみえるのだ。今日も疲れてるなぁ。それにしてもお客さんはいないのかしら。洋品店は閉店したとたん、あっという間に解体されて駐車場になってしまった。つぎつぎ街は変わる、とどまることなく。そんな変化を、ガラス越しに目の端がとらえる。

車を運転することは、まるでじぶんのロードムービーを制作しているかのようだ。あちこち歩くことは小さな発見の積み重ねだけれど、ここからあそこへ曲線を描くようにスピーディーに移動することは、今日から明日へ、今年から来年へ、移りゆくとどまらない時間を俯瞰するように見せてくれる。窓の外の眼から、運転席に座りハンドルを握るじぶんも見える。

デミオとたくさんの風景を眺め見た。1代目、2代目、3代目と乗ってきて、一番別れがたく感じるのは、16年という長い時間のせいか、それともその時間が決して平坦ではなかったからか。

新しいディーラーの担当の人にデミオを預け、このあとはスクラップされるの?と聞いてみた。いや、修理されて販売されますよ、という。国外で? いや、国内で。10万円くらいで? いや、もっと高いと思いますよ。へぇ。そんなやりとりをした。
あと半年くらいしたら、新しいオーナーのもと、どこかの町をあの目立つ色で走っているのだろうか。別れた相棒の第二の人生?を想像するのも悪くはない。