触れる・聞く

高橋悠治

毎月こうして書いているが、書くことがないような気が毎回している。音楽もできないような気がしているが、頼まれた演奏はしているし、作曲も頼まれてすることがある。ピアノを練習することも、最低限はしないといけなくなった。

コンサートにも行かなくなったので、昨日ひさしぶりに「三浦環の冬の旅」に誘われたが、上野公園もほとんど忘れていた。子どもの頃、両親に連れられて、いくつかのコンサートに行ったが、三浦環には行ったことがない。その頃歌曲やオペラは日本語で歌うものだった。藤原オペラの「タンホイザー」に連れて行かれたが、その時の出演者は両親の昔の知り合いで、出てくると、親が笑うので、それがオペラそのものよりも印象に残っている。東京音楽学校の奏楽堂はその頃は学内にあって、今にも壊れそうな建物だった、そこで黛敏郎と矢代秋雄の卒業作品を聴いたことは覚えているが、音楽は忘れている。

黛の作品は、その前に「かぐや姫」をテーマにした日本舞踊のための音楽を、舞踊のお師匠さんの家で初見で弾かされたことがあった。そのかなり後、二期会で練習ピアニストとして働いていた頃だと思うが、東京宝塚劇場で黛のミュージカル「可愛いい女」の練習に雇われたこともあった。

矢代秋雄とはその後横須賀線でよく顔を合わせた。コンサートを楽譜を見ながら聞くと勉強になる、と教えてくれたり、1963年にクセナキスに会うために当時の西ベルリンに行った飛行機でも出会った。

今考えてみると、音楽ができるまでの裏方として働いてきて、完成した作品よりは、それらが作られていく過程を手伝ってきたのは、あまり幸せなことではなかったかもしれない、と思うこともある。しかし、「思う」のは、おもしろいことではない。今は「手で触れること」と「聞くこと」に惹かれている。

ファゴットのために「連」を、シューベルトの詩で「時」を作曲した。1960年代にセリエルからミニマリズムが主流になった以来、統一や中心から多様性を経て多極性の世界へと、それが何であれ、「新しさ」より「知らなかった道」を、点より線を、時間より空間、連続より乖離、「ズレとブレ」(平野甲賀がコンピュータでは不得意だと書いていたと思う)。短い音(八分音符)と長い音(二分音符)だけで表したリズム。読んだ本:石川淳、田中優子、関曠野、の記憶(誤読?)からのヒントを使いながら。

書いた文字が残って、実験というより、「あそび」の邪魔をすることもある。忘れること、矛盾することが、続けるうちには避けられない時もあるだろう。論理は後追いで、その時の感じ、勘に頼ってやっていることが、続いていける保証になるのかもしれない。だが、こうして書いているのも、「考えている」には違いない。