猫がいなくなって7カ月が過ぎた。以前は、トトトと階段を降りてくる音、シャッシャッとトイレの砂をかく音、2階の窓辺の机からトンッと床に飛び降りる音が聞こえたりして、姿が見えなくたって気配を感じていたのに、いまは人が動かない限り無音。夜なんかは変に耳の中の音が聞こえるような気がしたりする。音だけでなく、金魚が水槽の中で朱色の体をひらりと返すのも目に入っていた。離れたところから聞こえてくるかすかな音や視線を変えたときにふと目に入る動きに、安らいでいたのかもしれない。生きものがいないというのは、どこか物足りないというか物寂しい。
そうだ、と母が元気だったころ、庭の木にミカンを置いてヘルパーさんと3人で野鳥がやってくるのを眺めていたのを思い起こし、そのとき使っていた手のひらサイズのカゴを探して出してミカンを二つ割にして入れ、梅の木に下げてみた。2日、3日…と待っても、なかなか鳥はこない。あのとききていたのは、メジロのつがいだったのだけどな。
5、6日たったころ、小鳥がやってきた。2羽のメジロだ。スズメより小さく、体はうぐいす色で、目のまわりにくるりと白い輪がある。高いところと低いところ、2か所に置いたミカンに2羽は飛び跳ねるように近づいて、細いくちばしでつつくようにミカンの房の中の果肉だけを食べる。2羽がいっしょにつつくことはなくて、食べているところに別の1羽が近づくと、パッと離れて別のミカンに行ったり、まるで相手にゆずるように近くの枝に飛び移ったりする。俊敏で、枝から枝へ移るのも速く、枝の間をすいっと抜けるように飛んでいく。
母と眺めていたのは、4年前のことだ。このつがいはあのときのメジロなんだろうか。調べたらメジロの寿命は4年、とあった。メジロに縄張りがあるのかどうかわからないけれど、もしかしたらあのつがいが営巣してここから巣立った子メジロかもしれない、と想像した。というのも、2、3年前にきてくれた植木屋さんが、これどうする?と手渡してくれた鳥の巣があったから。それはYの字の細枝の二股のところに器用にかけた小さな巣で、ほれぼれするような見事な出来栄えだった。植物の茎や荷造りテープを細く裂いたようなものまで上手に使いながら、小さいけれど深みのあるなかなかに居心地のよさそうなベッドをこしらえている。とても捨てる気にはなれず、玄関に宝物のように飾ったままだ。
ミカンの食べ方もこの巣のつくり方のように見事で、一房ごと薄皮は残して中だけを見事にくり抜いたように食べつくす。1月は何にも食べ物がないからか、2羽は1日に何度もきて、大体1日に1個は平らげていく。食べたあとのミカンは、あまりに職人仕事の凄技なので捨てられず、じっと眺めては写真を撮っていた。
そのうち、つがいとは別のもっと小さなメジロが1羽でくるようになった。2羽が食べていると離れたところで見ていて、いなくなるとミカンにパッと近寄り、このときとばかりに懸命についばんでいる。もしや去年の春に生まれたまだ幼いメジロなんだろうか。
小鳥を見ているうちに、小学生のころ飼っていた手乗り文鳥のことを思いだした。白いのと黒いのと2羽飼っていたのだが、手に乗せたりカゴの中をのぞいて間近で見ていたせいか、人差し指に乗せたときの爪のちくちくとした感触やまぶたのビロードのような質感や、分厚い大きなピンク色のくちばしがふちの方は白っぽく透明だったことまでよみがえってくる。白い方はなつこくて、カゴから出すと部屋の中を飛んで肩に乗ったり呼ぶと腕に止まったりしたが、黒い方は野生味を残しているというのか気性が荒くていつまでも慣れなかった。あれは飼い始めてどのくらいたったときだったのだろう、一年くらいは面倒をみたあとだったのだろうか、家族中であわただしくしていた5月の運動会の朝、急いで餌を替えようとカゴのふたを開けたすきに黒は飛び出し、天窓のところに一瞬止まったあと、東の青い空へ飛んでいってしまった。
葉が落ち緑が失せる殺風景な冬の庭は、高いところからもミカンの色がよく目立つのだろう。数日後にはヒヨドリが2羽、3羽とやってくるようになった。朝早いうちにきて高い木のてっぺん近くや電線の上に止まり、見張りをするように眺めてはピィーッと鳴く。縄張りの主張なのだろう。くちばしは細く頭の毛は立っているように見え尾はピンと長い。メジロの4倍か5倍はある体で威嚇するように追い回したりミカンを独占したりするのだが、案外メジロはちゃっかりしていて、別の木の茂みの奥の方に隠れ隙をねらってひょいと出てきてはパクパク。用心深いのはヒヨドリの方で、ガラス越しに人が動いただけでも飛んでいくが、メジロは平気な風情で食事を途中で中断したりしない。
おもしろがってミカンをリンゴに替えてみたら、また違う鳥がやってきた。でかい。ヒヨドリより太身で羽は茶色、お腹はぶち模様がある。図鑑を調べてみたら、ツグミのようだ。ヒヨドリのようなシャープさはなく、なんとなく鈍重な感じで、リンゴを食べたかと思うと地面の上を歩いては餌を探し回っている。
バケットをガリガリと切って出たパンくずをまいたら、キジバトも現れた。ドンクのバケットの焼けた皮のところだからおいしいんだろう、と思いながら見ていると、食べ物がなくなると梅の木の上にじっと止まって動かない。日が照ってくるとわずかに羽を広げ、またじっとしている。メジロは大きなハトに遠慮することなくちょこまかとふるまう。平和の使者といわれるのは旧約聖書のノアの方舟の物語に由来するというけれど、この静かにたたずむ姿のためかな、などと考えた。
ほかにも落花生に集まるシジュウカラ、ちょっと鳥の餌をまけば群れなしてくるスズメ、といろいろな鳥の観察を続けた冬だったのだが、仙台も先週15度超えの日があり、その後はやってくる鳥の数が減ってきた。メジロのつがいも朝にきたきりこない。ツグミもこなくなった。落花生がカラスにねらわれるので庭に置くのをやめたら、シジュウカラはぴたりとこなくなった。めっきり春っぽく明るくなった日差しの中で、梅の花が開き始め、近くの野山においしいものが増えてきて、好みの餌を求めてあちこち飛び回っているのかもしれない。メジロはどこかで巣づくりの準備中だろうか。ツグミも別の場所に移動したのだろうか。
もう半世紀以上もたっているのに、ごくたまにあの手乗りにならず飛んでいった文鳥のことを考える。窓に止まったあと明るい光の方へ消えてしまった姿が、いまも目の奥から消えない。カラスに狙われたか餓死したか骨になりチリになって消えたか。そう思うといまも少し胸の奥がちりちり痛む。人に飼われた生きものは野生には戻れないから。でも、ガラス越しに眺めていた鳥たちは違う。どこかで元気にやっているでしょう、季節がめぐればまたやってくるでしょう、と思う。暖かい部屋の中で冬を越し春を迎える人の想像をはるかに超える深い知恵で、小さな鳥たちは懸命に生きている。