仙台ネイティブのつぶやき(22)見えない場所

西大立目祥子

 25年ほど前、父のガンの手術と治療のために足しげく病院に通っていた時期がある。

 病棟に足を踏み入れるとツンと消毒液の匂いが鼻をつき、決して快適とはいえない病室にはぎっしりベッドが詰め込まれて、術後のからだをいやす人たちが横になっていた。でも、ガン闘病というようなとおりいっぺんのイメージと雰囲気は違っていて、新聞を読み、テレビを眺め、談笑するようなおだやかな時間もそこにはあった。

 階下に行くと、髪の毛の薄くなった子どもたちがカラフルなパジャマで走りまわり、ベッドに小さなテーブルを乗せて書き取りをする子がいる。屋上では洗濯物が風に揺れ、おしゃべりしながら洗濯機をまわすお母さんたちの表情が思いのほか明るいのに驚いた。病院は生活の場でもある、と気づかされた。

 そのころ私は疲れを知らない30代で、術後なかなか熱の下がらない父の額のタオルを冷やすために、病院から借りた小さな簡易ベッドの上で一晩うつらうつらしながら過ごし、朝8時半になると顔を洗いジャージをシャツとスカートに着替えて、自転車で会社に向かった。
 
 ラッシュの人の波をぬって走りながら、思ったものだ。毎日元気に働き、会議だ売上だ、と追いまくられていたら、病院で治療を続ける人たちがいるなんて想像できないだろうな、と。病院は「見えない場所」だな、と。

 晴天の霹靂。この春、私はその見えない場所の住人になった。健診で異常が見つかり、手術のために10日ほどの入院が必要になったからだ。大腸内視鏡だ、胃カメラだ、CTだ、と初めてづくしのドギマギする日々が続き、入院の手引き、手術や麻酔の説明書をよく読むようにと手渡された。

 手引きには、入院時には「マニキュア、ペデキュア、ジェルネイル、つけまつげ、ピアス」をとることとあり、手術の説明書には「入れ歯、補聴器、メガネ、コンタクトレンズ、時計、指輪、ヘアピン」などの身につけているものすべてをはずす、とある。そうか…社会で生活するために必要としていたもの、というか自意識をすべてはぎ落として、ただのヒトとして病んだカラダを手術室のライトの下にさらさなければならない。だんだん気持ちの準備ができてきた。

 主治医です、と現れた医師は、まだ少年の雰囲気を残すような色白で小柄な人だった。まだ30歳ぐらいだろうか。その若さに、父との会話がよみがえる。「執刀する先生っていくつぐらい?」そう聞くと、父は「おまえぐらいかなあ、いや3つ4つ上か」といい、私は自分の頼りなさを思い、30そこそこで大手術がやれるんだろうかと不安を覚えたものだ。でも、いまならよくわかる。入ってくる仕事のすべてがおもしろかったあのころ。怖いもの知らずで勢いのある30代は、難しい事も楽々超えていけるパワーに満ちているときだ。

 そして、担当です、とベッドわきに立った看護士さんが付き従えていたのは、この春採用という看護士になりたてほやほやの若い人で、パフスリーブの白衣から伸びている腕はほっそりとして、これまた少女のよう。まだ固い表情の横顔を見ながら、若い人に支えられて自分が治療に入ることを思い知らされる。私はいつの間にこんなに歳をとったんだろう。

 入院したその日、すたすた歩いていた隣のベッドの人に「私、おととい手術して明日退院なの」と話しかけられ驚いた。「この部屋はすごく回転が早くて、みんな4、5日で出ていくのよ」と静かに話すその人は、40代後半ぐらいだろうか。「早期の乳がんなんだけど、いま思うとこの何年か、子ども3人の面倒みて、パートに出て、睡眠時間3、4時間だった。無理しすぎたのね」と淡々と続ける。私もそうだった。断れきれない仕事に汲々として、介護に右往左往して、自分のことを後回しにして、眠る時間を削っていた。「退院したらどこかで会うことあるかもね」「そうね」二言三言なのに、傷ついた者同士、もっと自分のこと大事にしようね、元気になろうね、という共感に包まれたやりとりに気持ちが和む。

 ことばをかわしたディルームとよばれる部屋は南に面していて、大きな窓から春の日差しがさんさんと射し込む。花盛りが最後にくる八重の桜が散り、樹々が緑に染まっていく季節だ。遠くに雪をかぶった蔵王連峰が輝き、その右には仙台のシンボル、三角のおむすびのような太白山(たいはくさん)がちょこんと姿を見せている。視線をその下に移せば、そこは私の生まれ育った街だ。
 ほわほわとやわらかな緑に染まるのは、通った小学校。ときどき買い物に行くスーパーの看板の陰には、猫を連れて毎日通った動物病院があるはず。図書館に通う道のわきには、幼なじみの家の屋根も見える。ついこの間まで、あの通りをのんきに歩いていたのに。まさか、入院、手術なんてことになるなんて。

 手術日は朝早く体内の電解質を整えるというペットボトルを飲むよう渡され、血栓予防の加圧ストッキングをはき、歩いて手術室に向かった。入ると、サティのピアノ曲が低くかかっていた。上半身の衣服を脱がされながら「よかった、これ好きな曲」というと、一人の看護士さんが「まあ、私が選んだの、大正解ね」といい、あとは麻酔を入れられ意識がなくなった。
 その日は一日、手術した下腹部の激しい痛みに悩まされた。説明されていたとおり、全身管だらけ。それでも寝返りを打つようにいわれ、ベッドの柵にしがみつきながら半身を起こすと、突然嘔吐に襲われる。でも痛くて苦しいのに、いくらでも眠れる。そういうと「一睡もできない人もいるのよ、エライ」とほめられた。辛抱強いというより、痛みに鈍いんだろうか。

 2日目の午後には、早くも歩行練習が始まった。術後、何よりこわいのは血栓らしい。最大の予防は歩いて足裏を刺激し、全身の血流をよくすること。点滴と背中の麻酔の針とおしっこの管とドレーンという排液の管をつけたまま、何とか起き上がり歩く。上半身を起こしたとたん、血流が変わるのを感じる。痛いしやっとやっとの歩行だけれど、ヒトって歩かないとだめなんだというのが、よくわかる。

 3日目の朝のことは忘れない。目が覚めた瞬間、自然と笑顔になれて、みんなに「おはよう」といいたい気分だったから。ひどい痛みが遠のいている。回診の先生たちに「今日は、元気です」といったら、「いいねー」の声とともに管をはずされ、お昼からはおかゆになった。なぜかわからないけれど、本が読めるようになったのもこの日からだ。細胞にとって48時間というのは、回復に必要な時間なんだろうか。この日の夜は、術後初めて歯を磨き、石けんで手と顔を洗った。歯磨きしながら、いつだったか、激戦地で助かった日本兵はみな身なりに気を使う人だった、と誰かがいっていたのを思い出した。その謎が解ける。顔を洗い、髪をすく…身支度を整えるというのは、余力なのだ。カラダがひどいダメージを受けているときは、そんな余裕はない。

 私が回復する間にも、病室の人は入れ替わる。甲状腺の手術を受けた人が退院し、夜遅く盲腸の手術を終えた人が入ってきた。深夜、腸閉塞のおばあちゃんが担ぎ込まれ、カーテン越しに「痛い、痛い」としぼるような声で訴えるベッドまわりが、にわかにあわただしくなったこともあった。次の朝、私の主治医の先生が「◯◯さん、手術して直そうね」と話しかけ、看護士さんが「大丈夫よ、私たちがうまくやるから、心配しなくていいわよ」と説得していると、「先生、手術室空いたそうです」と、もう一人が駆け込んでくる。「えぇっ、いまか。わかった。やろう!」と飛び出して行く医師。
 本当に医療の現場の若い人たちは、だれもが真摯で懸命だった。このまちが再び大地震に見舞われることがあったとしても、戦争が始まる日がきたとしても、彼ら彼女らは目の前の弱った人のために手術を続け、検温に歩くだろう。

 手術から6日目に退院した私は、その2日後には街を歩いていた。見上げると、病院がすぐ間近に白くそびえている。この仙台市立の総合病院が2014年の暮れ近くに、ここに新築移転したことはもちろん知っていたし、手術のための検査にも通院していた。でも、見慣れた街のすぐ向こうにこんなふうに見えることに、どうしていままで気づかなかったんだろう。

 9階の大きく切られた開口部─何度も風景を眺めたディルームが見える。つい10日前、私は手術を控え不安をかかえてあの窓越しに町を見下ろしていたのだった。いま、私は回復してその窓を見上げている。見下ろす私と見上げる私の視線は呼応し交錯し、まるで合わせ鏡のように互いの姿を映し出す。
 私にとって、病院はもう見えない場所ではなくなった。そこは、日常にふりまわされそうになる私に、もうひとつの暮らし方、別の時間があることを教える。そして、いつかまた、見下ろす私と見上げる私が入れ替わる日がくるのかもしれない。
 午後5時。今日の晩ごはんは何にしようか、と気にし始めるころ、病院は夜勤の看護士さんたちの交代の時間だ。「夜担当の◯◯です」という声が、きっと今日も病室に響いているだろう。