仙台ネイティブのつぶやき(80)模型をつくった小西さんのように

西大立目祥子

昨年夏、地元紙、河北新報にのった記事を見て、思わず声を上げそうになった。「区画整理で一変した仙台・二十人町1935年ごろの町並み再現した模型お色直し」。見覚えのある模型の写真ものっていた。
あの紙製の手づくり模型が、30年以上も捨てられることなく残っていたなんて! それは、1989(平成元)年夏に、仙台市宮城野区二十人町の糸屋の主人、小西芳雄さんが中心になり、地区の商店で結成していた「仙台東口繁栄会」の仲間たちとつくった街並み模型だ。当時、小西さんは50代後半。町内に暮らす親世代の年寄から話を聞き出して、昭和10年ごろの街に思いをはせ一棟一棟、組み立てていった。ミシン糸が入っていた空き箱を材料に、屋根には黒い紙を貼り、大人の工作で50軒ほどの店をつくったのだった。

記事によれば、発見したのは、宮城野区で平成の初めごろ活発に行われていた「地元学」という活動を振り返りつつ、地域の記録収集の活動をしている市民グループ「みやぎの・アーカイ部」。二十人町近くの榴岡小学校に模型が残っているはず、といううわさを聞きつけ、小学校を訪ね発見に至ったらしい。ずいぶんと傷んでいた模型をメンバーが救出し、のりとハサミで修復して公開の運びという。

たしか、小西さんが残した手記のようなものがあったっけ…と本棚を探したら、30年眠っていたホッチキス止めの冊子『私たちの小さな町の小さな歩みの記録』が出てきた。発行は、「平成元年9月15日」。最後のページには、モノクロコピーで細やかな表情は読み取れないものの、できあがった街並み模型をテントの下に広げ、街の古老や子どもたちと談笑する小西さんが写っている。そうだ、七夕のとき、二十人町のどこか空地にテントを張り模型をみんなで眺める催しに私も行って、この冊子をいただいたのではなかったか。小西さんの商人らしいいつもにこやかで快活な表情が思い浮かんだ。

二十人町といっても仙台市民でなければわからないだろうから、ざっくりと説明すると、仙台駅東口にほど近く、江戸時代は細い道の両側に足軽屋敷がびっしりと並ぶ町だった。1887(明治20)年に東北線が開通すると「駅裏」とよばれるようになり、さらに戦時中、駅の西側が爆撃を受けて焼け野原となり戦後は戦災復興事業で新しい街並みがつぎつぎと整備されていったのにくらべると、戦災をまぬがれた駅の東側は瓦を載せた黒々とした木造の住宅が密集していて、小さな商店が連なる二十人町の通りは取り残されたような雰囲気が色濃かった。もちろん、そこには下町の人情豊かな暮らしがあり、小さな商いはそれなりに活況を呈していたのけれど。

行政は東口を西口のような街並みに、と考えたに違いない。そこに400年の歴史があることも、2代、3代と必死に守り抜いてきた商売があることも、何よりそこに人が生活を立てていることなど、さほど考慮せずに。小西さんの話では、道路計画の話は昭和30年代、父親の代に出始め、自分たちの世代が大学進学などを終えて帰ってきたころにはだんだん具体的になってきて、勉強会や先進地視察をしては話し合いを重ねていたという。自分たちの人生がかかっているのだから、時間を見つけては将来の町を話し合う日々だったようだ。でも答えはなかなか出ない。いま手元に残る小西さんの回想録を見ると「先進地はどこへ行っても同じ街並み」「再開発ってのはいかにして土地を諦めるか、というところに落ち着く」ということばが胸にささってくる。

町とは何か、将来の町をどう描いたらいいのか。自問自答する中で、小西さんたちは手がかかりは過去にあるという考えに行き着く。そして一世代上の住人から話を聞き、自分たちの記憶を重ねて、昭和10年ごろの街並み模型づくりという試みに着手したのだった。つくり上げ、ようやく答えをつかみかけたころ、小西さんが口にしたことばが忘れられない。「模型をつくってみてわかったんだ。この町の風景のよさは、“軒の深さ”にあるって。だから区画整理事業で立てられる建物はビルになるとしても、軒をつけたいんだよ」

しかし、区画整理事業が完了しできあがった町は、小西さんが思い描いた町とはまるで違うものになった。幅40メートルの道路がどーんと抜け、両側には高層のマンションが立ち並ぶ。4、50軒あった商店のうち、戻れたのは数軒。がらんとして殺風景な町は歩く気にはなれない。建物が取り壊され事業が進む最中、仮店舗で営業していた小西さんを訪ねたことがあった。「いやもう大変なことだよ、区画整理事業って。もう近隣商業の町じゃなくなるね」そう話していた小西さんはそのあと病に倒れ、新しい町での糸屋の再開は果たせず亡くなられた。
 
2月最後の週末、この街並み模型が展示されることになり、30年ぶりの再会を果たすべく出かけた。「みやぎの・アーカイ部」のメンバーが手入れした長さ3メートルほどの模型は色あせてはいるものの、できた当時の印象を保っていた。いまは道路の下に消えてしまった一軒一軒の店が肩を寄せ合うように並び、通りの中央にはランドマークだった二十人町教会の塔がそびえ立つ。ちなみにこの教会は、W.M.ヴォーリズの設計である。種屋のおじさんも小西さんも「ここは下町だけど、俺たち日曜学校に行ってたんだよ。お菓子もらえたからさ」といっていたっけ。敷地内の井戸の場所まで緻密に再現していることにあらためて気づかされた。模型はパーツに分解されしまわれていたので、組み立てには私が本棚から抜き出し提供した資料も役に立ったと聞かされた。みんなが模型を前に話し込む。同じだ、30年前と。あのときも、できたての模型をぐるりと取り囲み、いつまでもなつかしそうに話し込む人たちがいた。

模型が保存されていた榴岡小学校と町のかかわりは深く、子どもたちは二十人町の店に弟子入り留学なるものをしていたという。店を訪ね、そこで商いの手伝いをする一日体験だ。会場にはその記録を伝えるコーナーもつくられていて、23年前、4年生の子どもたちが記した体験の感想が本に仕立てられ並んでいた。担任だった白井先生という方が、ずっと手元に大切に残されてきたのだという。『二十人町のだがし』『二十人町のかまぼこ』『二十人町の井戸』『二十人町の歴史』『二十人町の人の話』というしっかりと厚みのある本が5冊。色鉛筆で子どもたちが一生懸命描いたタイトルと絵が何ともかわいい。いまは33歳となった男の子が一人、訪ねてきていた。

小西さんが小学校を訪ね、授業をしていたことも初めて知った。区画整理事業を前に町づくりをどう進めて行くのか、話をしたらしい。この日は背広を着込みネクタイを締めて子どもたちの前に立ち、子どもたちもいつもの冗談をいうおじさんとは違う面持ちに少し緊張して話を聞いたようだ。45分の授業で話は納まりきれず、あとで小西さんは説明を補足する手紙を子どもたちにしたためた。その手紙も展示してあった。「人は将来の事を考えるのに、今までたどってきた過去と、今置かれている現在の事を充分に理解しないと、将来のことが予測できないのです」「街もだんだん少しずつ変わっているのです。誕生、成長、老化と人と同じように変化していくのです。ただ人はせいぜい生きているのが100年くらいですが、二十人町は400年ほど生きてきました」「街づくりは、形と心の両方が必要です。両方とも急いではいけません。じっくりとやるべきです」B5に5枚ほど綴られた手紙は、40年に渡って、激変する区画整理事業をどう超えていくのを考えに考え抜いた人の珠玉のことばに満ちている。そして、この手紙をしっかりと受け止め記した子どもたちの返事もまた、胸を打つものだった。

現在の二十人町は、わずかに神社にかつての暮らしの痕跡をとどめているだけで高層ビル街と化し下町商店街の片鱗は探しようもないのだけれど、この紙の模型と、子どもたちがつくった手づくりの本と、私の手元に残るホッチキス止めの冊子が残されていたことで、小西さんの存在がリアルによみがえってきた。すぐそばに街づくりに悩み続けた小西さんがいる。本気でたずねればまっすぐ答えてくれそうだ。
どんなにささやかでもいいから文字にして、形にして、残すことの力、そして、それを街に暮らす人たちが10年先、20年先へとリレーすることの意味。小西さんが模型をつくって一世代前の暮らしをたずねたように、みやぎの・アーカイ部のメンバーや会場に集まった人たちは、ビル街の下に眠る二十人町に潜り何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。思えば、みんな、小西さんが模型をつくり子どもたちに授業をした年代に見える。ある年齢に達すると過去に問いかけるようになるのか。「軒の深さだ」と小西さんがいったような明快な何かが見つかるんだろうか。