仙台ネイティブのつぶやき(81)遠くにみる先生

西大立目祥子

 母のコートの裏地の背中のところがほつれた。たぶん、動いてすれるうち生地が糸に引っ張られ、しまいに端から破れてしまうんだろう。安物は縫い代に余裕がないからなぁ、とぶつぶついいながら直す手立てを考えていて、首のところから裾まで幅広のリボンを縫い付けることを思いついた。ちょうど幅3センチくらいの赤いタータンチェックのリボンがあったので、当ててみるとなかなかかわいい。まずはリボンの端をきちっと折って、アイロン。と、反射的に考えたとたん、中学時代の家庭科の授業が思い浮かんだ。
 ええと、五十嵐先生といったっけ。小太りで、目がくりくりしたどこかユーモラスな雰囲気をただよわせていた先生。ブラウスにスカート、ワンピースまで縫わされた授業で、先生はときおり、ミシンをかける生徒の間を歩きながら澄んだ声を張り上げた。「きれいに仕上げるにはこまめにアイロン!」ソーイングが趣味でもないじぶんの中に、50年以上もこのことばが生きているなんてなぁ。先生のひと言どおり、アイロンを当てて縫い始めたリボンは曲がることなく、ぴったりと裏地に縫い付けることができた。

 10代でからだに入り込んだことばは、ずっと深いところに降りて定着するのだろうか。そして、何か気持ちが揺れるようなことがあったりすると、ふっと水面まで上がってくる。
 ひとり、忘れがたい先生がいる。佐藤正志先生。私に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を教えてくれた人だ。担任だったのはたった1年なのだけれど、この先生が担任になったとたん、教室のすみっこに縮こまっていた男の子が、子犬がじゃれるように先生の腰に抱きついて相撲をとったりするのに目を見張った。じぶんに心を開いてくれるおとなを、子どもは瞬時に鋭く見極める。

 ある朝登校すると、黒板の上にほぼその幅に合わせて模造紙でつくった大きな原稿用紙が張り出されて、マス目を埋めるように「雨ニモマケズ」の詩が黒マジックで書かれていた。教壇に立った先生がいった。「ひと月で、この詩を覚えるように。来月、ひとりひとりに暗唱してもらうよ」えーっ。むりー。長過ぎるー。教室に叫び声のような声の渦が沸き起こった。でも、ひと月後、50人をこえる10歳の子どもたちは残らずこの詩を覚えた。意味の理解はどうあれ。

 詩のことばの咀嚼はずっとずっとあとになってからついてきた。平成5年の大冷害の年、私は仙台近郊で長いこと米づくりをやってきたおじいさんたちを手伝って、地域誌をつくっていた。連日、曇り空で肌寒く、ヤマセといわれる冷たい風が吹きわたる田んぼの稲は青く突っ立ったまま。そのとき記憶の底から、ことばが上がってきてふっと口について出た。「サムサノナツハオロオロアルキ」
 気温が上がらないとき、田んぼでは深水管理をする。農家の人たちはくぐもった顔で空を見上げ田んぼをあっちこっちと歩きまわる。歩いては腰をかがめて水に手を入れ、稲はこの寒さを乗り切れるだろうかと案じるのだ。あの冷害の年、出穂はあったのだろうか。稲は花を咲かせることなく夏は終わったのかもしれない。宮城の米の作況指数は37。重たいコートを着て歩く宮澤賢治のよく知られた写真があるけれど、あれは夏だったのではないかと想像した。

 「一日ニ玄米四合」は、私が食べる一日のごはんの4、5倍。1年に換算すると、米3俵半を超えている。そこに添えられた「味噌」は味噌汁なんだろうな。歩きまわる田んぼの近くには、命を支えるための大豆畑と野菜畑も整えられているのだ。宮澤賢治は収穫した大豆に麹を加えみずから味噌をつくることはあったのだろうか。土間の上の方には、藁でしばった味噌玉がぶら下げられていたんだろうか。

 そして、「東ニ病気ノコドモ」「西ニツカレタ母」「南ニ死二ソウナ人」「北ニケンカヤソショウ」というところは、これを覚えようとする10歳の子どもたちを「えーと、東はなんだっけ?」と悩ませる箇所だった。でも、理屈としてはわからないけれどイメージとしてはつかまえられるような気がする。東には薬師如来がいるのだから、病気の子どもは治るだろう。夕日が沈む西には、薄暗くなってなお野良仕事をする母が見える。いま年老いて死なんとする人は少しでも日差しの入る暖かいところに横にしてあげたい。そして北風が吹きすさむところには、つまらない争い事が起こりそう。
 覚えてもう半世紀は超えているのに、ぐずぐずと反芻する牛のように、私は湯船につかっているときなんかに、「小サナ萱ブキノ小屋」の屋根の葺き替えは誰に手伝ってもらったんだろう、と考えたりしている。

 佐藤先生が音楽の時間に、小さなポータブルのプレーヤーを持ってきて突然レコードをかけたことがあった。「この曲を知っている人は?」みんなが首を横にふると、先生はいった。「グリーグという人がつくったペール・ギュント組曲の朝という曲です」たしか、音楽の教科書に載っていた覚えがある。1週間後、先生はまた同じ曲をかけた。「この曲知っている人は?」3、4人が手を上げた。次の週も次の週も、そのまた週も、先生はこの曲をかけ続けた。2ヶ月が経つ頃には、全員が「あーさー!」と答えるようになっていた。
 町はずれの小学校のクラシックなんて縁のない子どもたちに、先生はみんなが入れる小さなドアを用意しようとしていたのだろうか。そうかもしれない。でもたぶん、先生はこの曲が好きだったに違いない、とも思う。4分弱のこの曲にいつもじっと聴き入っていたから。先生の家は、仙台南部の田園地帯にあった。もしかすると家は農家で、朝、草取りをしてから学校にきていたのかもしれない。草原に朝の光が満ちあふれていくようすを描いたこの曲に、すがすがしい朝の田んぼの風景を重ねみていたのだろう。「雨ニモマケズ」にしても、深い共感がまずあったのだと思う。

 苦手だった跳び箱を跳べるようにしてくれたのも先生だ。体育の時間にひととおり全員が飛ぶようすを見た先生は、飛べない子だけを集めると、「勢いよく走り、踏み台を強く蹴って、跳び箱の上に乗っかれ」といった。走る勢いと蹴る力があれば、誰でも跳べることを知っていたのだろう。全員が乗れるようになると、次には手をついて飛ぶように話し、ひとりひとりが踏み台を踏み込んだ瞬間に先生がお尻を持ち上げてくれる。先生は本気だった。次々と声がかかる。「よし!」「ほら、行け!」足の力で空中に飛び出し、降りていくときに腕の力で跳び箱を押すようにして前へ。たった45分の間に全員が跳べるようになっていた。できなかったことが、できるようになるうれしさ。そして、体がふぁっと浮かぶ楽しさ。どこか夢のような授業だった。

 もうひとつ、女子校時代の先生のことも書いておこう。2年生の自習の時間だったか。夏だった。監督にたしか森先生という体育の先生がやってきた。ハンドボール部の顧問だからかよく日焼けしていて、いま思えばユーモアのセンスがあったのかもしれない。教室に漂うやる気のなさに気を許したのか、やおら映画の話を始め、そこから急にマリリン・モンローに話題を移し、突然こういった。「あのな、男がみんなモンローみたいな女が好きだと思うなよ」17歳45人がどっと笑った。さらに先生はこう続けた。「俺はオードリー・ヘップバーン派なのよ。かわいいよねぇ。わかる?わかんねえかなぁ」また、みんながどっ。わかったのか、わからなかったのか、じぶんでもわからない。
 あれは何だったんだろう。白いブラウスからぷくぷくした二の腕を出し、机の下にょっきりと足を投げ出すメス化しつつある女子の群れの圧を感じての本音だったのか。
 先週だったか、赤信号でクルマを停めふと横を見たら、店のガラス戸にポスターが貼ってありモンローが肉感的な表情をこちらに向けていた。わぁ、先生。
 大切なことを伝えてくれるからいい先生なのではなくて、本気と本音で向かい合ってくれるからいい先生なのだろうと思う。だからこそ、胸の奥底にその後姿とことばはとどまり続けているのです。