仙台ネイティブのつぶやき(83)田んぼの中で眺め見る

西大立目祥子

 仙台市東部、海寄りの地域に七郷(しちごう)とよばれる水田地帯がある。江戸時代に新田開発とともに開かれたところで、地名から想像できるように明治22(1889)年までは7つの村だった。平成のはじめ、この地区の地域誌づくりにかかわったことがある。大がかりな区画整理事業が実施されることになり、農地が消え新しい道路が引き直されて風景も暮らしも大きく変わってしまうことに大正生まれのおじいさんたちが危機感を抱き、何か記録をと画策されたのだった。

 当時働いていた小さなデザイン事務所の一社員として、縁もゆかりもなかった地域に4年も通うことになった。土曜日の午後、当時はまだ運転免許も持っていなかったのでバスに乗り会場の市民センターに向かうと、会議室には7つの地区からそれぞれ2、3人が編集委員として出てこられていて会議が始まる。兼業にせよ、専業にせよ、長くこの地域で農業にかかわってこられた方が多く、暮らしてきた地域に対する思いは想像以上に深かった。全体をとりまとめていたのは代々米づくりをされてきた堀江正一さんという方で、いつもにこにことして、会議で出る意見の相違も対立を際立てることなくうまくまとめ上げる。ムラの長というのはリーダーシップを発揮してじぶんの意見を声高にのべるのではなく、人の意見にじっくりと耳を傾けるこういう人をいうのだな、と教えられた。

 会議を重ねながら本のイメージを話し合い、目次を立て、と作業は進んでいったのだが、分担を決めていざ原稿、となったところで、盲点に気づいた。資料がない! 城下町仙台なら江戸時代初期からの城下絵図がそろい、地名についても文献があり、郷土史家が書き残した本もあれこれあるのに、七郷に関してはというか、城下町周辺のムラだった地域にはほとんど資料は残っていないのだった。ちなみに七郷村が仙台市に編入されたのは昭和16(1941)年のことだ。

 結局、現場を歩き一次資料をつくるかたちで作業は進んだ。納屋に機械化前の農機具を保存している方がいたので訪ね、一点一点写真を撮り使い方を教わったり、おばあさんたちに集まってもらい嫁いでからの苦労話を聞いたり、違う世代の人たちに子ども時代の遊びについてたずねたりした。地名の由来から伝説までを、編集委員の人たちが思い出を絞り出すように記し、中には狐に化かされた話を10篇もまとめて持ってきてくれた人もいる。気の合う2人の編集委員が、七郷全域に残る石碑を丹念に歩き回って調べ尽くしまとめ上げた一覧表は圧巻で、のちに仙台市史編纂の際の基礎資料になった。

 私にとって忘れられない経験になったのは、広瀬川から取水されこの地域と周辺の水田1500ヘクタール(当時)に水を送ってきた七郷堀と、長喜城(ちょうきじょう)という集落に残る屋敷林、居久根(いぐね)の取材をする機会を得たことだ。
 七郷堀は江戸時代初期の城下絵図に描かれている農業用水で、荒地を開拓しながら東へ東へと進んだ新田開発にともない延伸し、毛細血管のように地域に張り巡らされていった。同僚のカメラマンといっしょに幹線をたどり分水堰で枝分かれするその先を追い、田んぼへと流れ込む水を見届けた。大発見!と胸が踊ったのは、城下絵図に描かれている広瀬川取水口近くの堰守の屋敷が変わらずに同じ場所にあり、そこに堰守の方が住んでいたことだ。80歳は優に越していると思われた大黒五郎さんという堰守のおじいさんに会いに行き、取水する水の量を加減する作業に同行して話を聞いた。江戸時代からずっと同じ場所で、空模様を眺めながら細やかなに水の管理をしてきた人がいたことに圧倒された。稲作は何よりまず水の管理に始まることなのだろう。

 居久根の「居」は屋敷、「久根」は屋敷境を意味するらしい。長喜城はいち早く集落で共同で米づくりに取り組んできた地区で、計画されていた区画整理事業には加わらず、このまま地域を維持していくことに決めていた。見事な居久根に囲まれた家が数軒残っていたことも、そんな決断を後押ししたのかもしれない。

 緑の樹林は、まるで水田にぽっかりと浮かぶ島のよう。S家は約1500坪。専門家の力を借りて図面をとり、樹種と本数を調べると、スギが31本、ヒバが21本、ヒノキが10本もあり、そのほかツバキ、カキ、ウメも10本ずつ、全部で160本を超える木が分厚く家のまわり、特に風と雪を防ぐために北西部を固めていた。9代目というご主人によれば、昭和42(1967)年に建築した家は、樹齢200年超えのスギを10本、そのほかケヤキなども倒し、ほぼ居久根の木だけで建て替えたのだという。

 落ち葉や倒木した木は風呂炊きに使われていた。なんとお風呂は五右衛門風呂。稲を脱穀したあとの籾殻もいったんヌカ小屋に貯蔵されたあと燃料となり、さらに燃やしたあとの灰はアク小屋にとって置かれ田や畑の土壌改良に使われる。もちろん、カキやウメは食用。居久根の中には見事な循環のシステムがあり、居久根は近場に山のないこの地区のヤマであり、農業と自給自足の暮らしを支える基盤なのだった。

 この5月中旬、私の母校の高校の1年生が水をテーマに地元でフィールドワークをすることになり、ご縁と思い案内役を引き受けた。240人に付き添って七郷堀の取水口へ、そして長喜城ではお許しをいただいて敷地に入り、居久根の説明をすることになった。気がつけば、あれこれと地域のことや農業のことを教えてくれたおじいさんたちはみな亡くなられ、いつのまにか私は伝える側に立っているのだった。
 15歳、16歳というと…こんな比較はおかしいけど、うちの猫より若いのである。デジタル育ちの子たちにどう伝えればいいんだろう。私のムラへの目を開いてくれた七郷堀と居久根なのだ、ちゃんと伝え受け止めてもらって足元の地域と農業に目を向けるきっかけにしてほしい。ついつい力が入る。

 昭和30年代の七郷堀の写真を見せては、「こういう写真を見るときは、じぶんと無関係の風景と思わないで。この時代、あなたのおじいちゃん、おばあちゃんはいくつ?きっと見ていた風景です」と話しかけ、水路の走る江戸時代の絵図では「おもしろいでしょう?私たちはいまも城下町の上に暮らしているんだから」と興味を喚起したつもりだったけれど…。

 彼ら彼女らにとってはスギといえば花粉症なのである。「ほら、まっすぐ垂直に伸びているでしょう。だから家の建て替えの用材として欠かせなかった」と話し、「居久根は自給自足のための基盤」と説明する。話をする先から「自給自足」が果たしてわかるだろうかと心配になって保存食に話を転じ、「樽に夏場にたくさん取れるキュウリを塩をきつく漬け込んで冬まで」といったあとで、「樽」を知っているかしら、「塩をきつく」なんて塩分取りすぎと思われちゃ困ると不安にかられ、話はどんどん横にそれていくのだった。

 生活体験がまるで切れてしまっている中で、江戸時代にも通じるような自然と農に向き合う暮らしがあることをどんな切り口で伝えれば10代の子たちの胸に響くんだろう。汗をかきながら説明を終えたあと居久根から目を転じれば、もうすぐそこまで宅地とショッピングモールが迫っている。あの頃には想像もしなかったような風景だ。「いま記録を残さなければ何もかもが変わってしまい何も伝わらない」と話していたおじいさんたちの会話が、耳の奥底に響いてくる。