仙台ネイティブのつぶやき(93)種まく人になる

西大立目祥子

あ、源一郎さんだ。夕方のテレビのニュースを見ていたら、「その土地で暮らしを立て直してきた、という人を訪ねました」というナレーションとともに、旧知のメガネ顔が映し出された。
源一郎さんのもとを訪ねたのは、先ごろ出版され話題になっている『戦争語彙集』の著者で、ウクライナの詩人・オスタップ・スリヴィンスキーさん。仙台では日本語訳を手掛けたロバート・キャンベルさん、哲学者の鷲田清一さんの3人のトークが1月に行われていた。私はまだ読んでおらず、トークにも行けなかったのだけれど、「ウクライナの詩人、仙台へ」というニュースタイトルを見てつけたテレビは、スリヴィンスキーさんが大津波で流された地域を訪ね、喪失からどのように歩んできたかを問いかけながら祖国の復興を考える小さなドキュメンタリーに仕上がっていた。

東日本大震災では仙台の沿岸部にも約7メートルもの津波が押し寄せ、900人を超える人が命を落とした。源一郎さんの暮らす新浜も、ほとんどの家が津波で倒壊し60名近くが亡くなっている。源一郎さん自身も住まいと家族を失った。それでも、家を立て直し、親が残した畑を耕し米をつくってきた。
土地の再生と並行して、震災後、小説を書き始めた。作家の佐伯一麦さんを講師に活動をする「麦の会」のメンバーとして同人誌『麦笛』に短編を発表している。「前から書いてみたいと思っていた」と話すのだけれど、あまりに激烈なつらい体験を経験化するには、言葉で乗り越えるしかなかったのだと思う。テレビでは、国土が戦地となった遠くウクライナの詩人と、いつもとまったく変わらず訥々と少しぶっきらぼうに話す姿が印象に残った。

震災当時、源一郎さんは仙台市八木山動物園の園長という要職にあり、家族の安否を確認するために自宅へ車を走らせたものの、被災した沿岸部は瓦礫にはばまれて車を降りて徒歩で近づくほかなかったという。たどりつけば、地区が丸ごと瓦礫に変わり果てた悲惨な風景が広がっていた。

職場である動物園もまた大変な混乱で、餌不足から倒れる動物も出始めた。大型動物から小動物まで、数百頭の動物の餌の確保と生命維持のために、職員の多くが園に寝泊まりする数カ月だったのではないか。この3月の13年前の震災を振り返る地元紙の記事には、人気のチンパンジー「チャチャ」は低血糖から意識不明となり、カバの「カポ」は温水確保ができなくなって歩けなくなった、とあった。石油ストープを焚くそばで点滴チューブにつながれ横たわるチャチャの姿が痛々しい。

公私ともに修羅場としかいいようのない時間を過ごしながら、源一郎さんはいち早く家を再建し受け継いだ田畑を耕し始めたのだった。源一郎さんだけでなく、新浜の人たちはこの地に住み続けたいと仙台市に陳情し、今後住宅の再建ができない災害危険地区にしようとした行政の判断をくつがえした。海に近い、決して耕作に有利とはいえない土地にへばりつくように暮らしてきた地域の向こうっ気の強さがあるのかもしれない。

2013年の秋、源一郎さんに案内をたのみ周辺を歩いたことがある。海からわずか1.3キロほどの距離にある新浜は、海風や高潮を防ぐために長年にわたって松の植林を続け、それは戦時下をまたいで戦後も続けられた。その完了を祝う「愛林碑」が流されずに残ったという話を聞き、見たいといったのが発端だった。ゴム長をはき軍手をはめ源一郎さんの後ろを内陸側から歩き始めたのだが、横倒しになった松の大木が折れ重なり、その上を乗り越えて進めば、津波の残骸のような池にはばまれてしまう。どこまでも累々と横たわる松の倒木に、私は軽々しく見たいなどといったことを後悔していた。でも源一郎さんはどんどん前に行くばかり。どのぐらいの時間がたったのか、大木の墓場のようなところをくぐり抜けた先の藪の中に、愛林碑は台座からもぎとられ20メートルも押し流されて仰向けに倒れていた。幸い、石は割れていなかった。白い軍手で源一郎さんが泥をぬぐった先から、刻まれた碑文をノートに写し取った。

ずいぶんとあとになって、よくあんな大変なとこ歩いたよね、といわれた。そして、あれで石碑が新浜にとって大事だっていうのがわかったんだ、ともいわれた。源一郎さんは含羞の人というのか、めったに心情を吐露したりしない。へぇ、こんな本音を口にする人なんだ、と受け止めたが、その後、松林の再生をめざし植林が進んだ浜に、愛林碑が立て直されたと知ったときはうれしかった。これまた源一郎さんのあとについて石碑を見に行くと、碑は想像以上の大きさなのだった。

『麦笛』(16号)に掲載されている短編「男といきものたち」には、源一郎さん本人と思われる男と、家のまわりに出没する動物たちが描かれる。死んだままいつまでも放置された犬、烏についばまれようとする灰色の死んだ狐、足を怪我している雉…。動物たちはあやういところで命を保ち、何かの拍子にあっけなく死んでいく。倉庫に入り込んだ鼠を箒で追い出そうとして、男は鼠を殺してしまう。動かなくなった鼠に後味の悪さを感じた男は翌朝、見るに見かねて鼠を木の根元に埋める。そういう話だ。死んだ動物の向こうに、津波で死んでいった人の存在が浮かび上がる。

震災は、生きているものたちを冷酷に、生き残ったものとあの世にわたったものに分けた。親と兄弟は亡くなった。会えばあいさつをかわしていた地区内の人は60人がごっそりといなくなった。カバのカポとチンパンジーのチャチャは命を拾った。なぜじぶんは生き残ったのかを繰り返しじぶんに問う毎日だっただろう。
源一郎さんが何気なくもらした、「象のトシコと話をしていた」というひと言が思い出されてくる。「トシコ」はインド象で国内でも指折りの高齢だったのだが、震災を生き延び、翌年夏に死んだ。大地震と大津波にもみくちゃにされる中で動物と人の境界は薄れ、この世に残った者同士としての結束は強くなる。象舎の前に立って、源一郎さんはトシコに向かい、どうやって生きて行けばいいのだ、と問いかけたはずだ。動物は無垢な存在として人のまっすぐな言葉を受け止める。

定年退職して野作業に力を入れるようになった源一郎さんの畑には、友人知人が集うようになった。スリヴィンスキーさんを案内した小麦畑には、種まきからひと月がたってやわらかな緑色の芽が風に揺れている。みんなでつくった畑だ。津波による塩の影響をたずねられると、「雨が降り時間とともに抜けていった。週末農業を楽しみながら行うのも復興です」と答えていた。

源一郎さんとテーブルを囲んで向かいあったスリヴィンスキーさんがたずねる。
「震災のあと、自分にとって重要になった言葉はありますか?」
すると、源一郎さんはこう答えるのだ。
「種まく人になる、というかそういう人じゃないですかね」と。

モニターに向かい、えっカッコよすぎだよ、とつい声に出してしまったのだが、この「種まく人になる」という言葉で、源一郎さんのこの13年の時間がすーっと胸の奥底に降りてきた気がした。畑も田んぼも徹底して無農薬栽培にこだわるのもわかった気がした。源一郎さんは、稲にも農薬は一切使わず、津波で絶滅しかかったこの地域固有のメダカを田植えのあと田んぼに放ち、稲刈りの落水のときに回収して池に戻すという面倒なことを繰り返し、メダカの再生までを視野に入れた米づくりを実践している。種をまくことは土地の再生であり、生きものの復活であり、大きな循環の中に暮らしをよみがえらせること。何よりあきらめずに明日に希望をつなぐことなのだ。

源一郎さんに久しぶりに電話をして、カッコよすぎです、と伝えると、これまで書いた9篇を1冊に編んだと聞かされた。タイトルは、以前「山新文学賞」の準入選した作品からとった『風は海から吹いてくる』。さっそく送っていただくことにした。今年は源一郎さんの「仙台メダカ米」も久しぶりに食べることにしよう。