仙台ネイティブのつぶやき(1)堀の水のゆくえ

西大立目祥子

 七郷堀に水が入った。今年もいよいよ始まるのだ。…といっても、ほとんどの人には何のことやらわからないでしょうね。七郷堀とは、仙台の中心部を流れる広瀬川から取水され、東へと流れながら広大な水田を潤す農業用水のこと。毎日のように、この堀にかかる小さな橋を渡るので、水の具合をのぞき見ては4、5キロ先の田んぼのようすを想像している。
 毎年4月下旬、ある日を境に水かさが一気に増える。それは、代掻きの始まりの知らせ。数日後には田んぼに水が入って、耕うん機が行ったりきたりし始めるのだ。田植えはゴールデンウィークから5月20日ごろまで。減反で休む田んぼが多いとはいっても、つぎつぎと田んぼに水が張られていくから、堀の水かさもぐんぐん増していく。梅雨に入るといったん減って、夏の盛りに向けて再び水の量は上昇。梅雨明けの7月下旬から8月初めの出穂と開花を迎える時期、水は堀の脇から延びてくる草の下をとうとうと流れて、見ていて気持ちがいい。でも、このころの天候が実りを決めるので、農家は空模様を気に病んでいるんですよね。そして、9月に入り、朝晩の涼しさに夏の終わりをしみじみ感じるころ、水はある日突然、がくんと減る。稲刈りに向けて、田んぼから水が落とされたのだ。

 大震災が起きた2011年、七郷堀の水は4月になっても5月になっても増えなかった。橋の少し先の中学校の体育館には、沿岸部からたくさんの人が避難してきていた。そうか、今年は田植えができないのだと気づかされ、400年近く営々と休むことなく行われてきた米づくりがぱたりと止まった、その事態の大きさが胸に迫ってきた。
 あまり報道されなかったけれど、仙台市沿岸部も大津波によってひどい被害を受けた。集落が丸ごと流され、人の命も失われた。そして田んぼもがれきに埋め尽くされ潮をかぶった。田んぼに水を運ぶ用水路も、海へと水を流す排水路もがたがたに破壊され、七郷堀に水を入れれば、沿岸部が水浸しになるのだ、と聞いた。
 そうそう、かんじんなことを書くのを忘れていた。仙台は市街地の下流に水田が広がっている。これは全国的に見渡しても、極めてまれなことらしい。というのも、街が川の中流につくられ発展してきたからだ。日本の他の大都市は、もっと下流に生まれてているらしい。たしかに、東京も大阪もそうですよね。どんどん海を埋め立てして大きくなってきたのだから。
 江戸時代をとおして、新田は東へと広げられ、中心部のやや下流で取水された七郷堀の水は、ちょうど毛細血管が細やかに広がって全身に酸素を運ぶように、枝分かれして下流の集落をめぐり一枚一枚の田んぼに水を行き渡らせてきた。明治時代の地形図を見ると、曲がりくねった道といっしょに自然の小川そのもののように高低差に身をまかせ東へ広がっていく堀のようすがイメージできて、楽しい。

 大震災のあと、古文書の読み直しが活発になって、ちょうど400年前の1611年にも今回の大津波と同じ規模の大津波が仙台平野に押し寄せたことが明らかになってきた。もちろんこれまでも、大津波が襲来したことはわかっていたのに、具体的にどんなものかを想像できずにいたのだ。歴史家でさえも。
 たとえば、その年の晩秋に、伊達政宗は初鱈を徳川家康に献上していて、とのとき領内に大津波が押し寄せ、沿岸の船が内陸の神社のご神木のてっぺんに引っかかって止まった話を聞かせたことが徳川家の古文書に記されているのだけれど、それも家康をよろこばせようと話を誇張したのだ、といった具合に。私の育った街には「蛸薬師さん」とよばれている薬師如来があって、大津波のときタコがしがみついて流れてきたお薬師さまがご神体、と伝えられてきた。そんなまさかの伝説も、いまは本当だと心から思える。想像を絶するものを見ないと人の想像力は枠内にとどまったままなんだろうか。

 2012年の春、水は元通りとまではいかないけれど増えていった。2013年には、さらに増した。「3年ぶりの田植えだ」という声が聞こえてきて、ゆっくり田んぼを眺めにいった。空を映して広がる水をたたえた田んぼの風景は、ほんとに美しい。はじまり、動き出す。田んぼを眺めて、このときほどそういう印象を受けたことはない。
 農家の人たちは、表情に安堵感を浮かべながら「寒い、寒い」といっていた。沿岸部に分厚く繁り、田んぼを風と潮から守っていた松並木が根こそぎ流されたからだ。冷たく湿った風にかぼそい苗が激しくゆれている。江戸時代からずっとたゆまず、なぜ松が植え続けられてきたのか。私にもようやく、わけがわかった。

 生まれ育った仙台から、海、山、森、川…そんな話をお届けしていきます。