早朝まだ暗闇のなか自転車に跨りパンを買いに出かけると、ライトに反射して凍った道路が輝き、タイヤの下で心地よい音を立てます。1月の声を聞くと、寒は少し緩むものでしたが、今年は新年を迎えて漸く冬らしくなってきました。凍てついた夜明け前、「Sabbiera(砂撒車)」と書かれた深緑の旧い路面電車を見かけるのも独特の風情です。
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1月某日 ミラノ自宅
今年はレオナルド・ダヴィンチ没後500年にあたる。藤木さんと福田さんのための新曲のテキストをつくるため、「鳥の飛翔について」手稿を読む。
1893年にミラノで出版されたサバクニコフ監修による手稿は、研究者用にダヴィンチの誤字も訂正せずに収録した原文と、誤字脱字を多少補筆し、単語が全て少し見やすく整理した中世伊語の原文と、その仏語の直訳が各頁に掲載されている。一見読みやすい文章は現代の綴字法で書かれた仏語だが、意訳ではなく単に直訳だから、中世伊語で不可解な言回しは、意訳された英訳を参考にしながら読む。
尤も、文章を読み込むより、ダヴィンチ科学技術博物館の縮尺模型などを実際に目にする方が、理解がはやい。言うまでもなく、鳥の飛翔の観察は空中飛行器具の設計が目的だったわけだが、博物館を訪れると、実際に触って動かせる巨大な羽の模型やらヘリコプター回転翼の部屋で、課外授業の園児や小学生の低学年の子供たちが楽しそうに集う姿が微笑ましい。
「これが世界で初めて電気的に鋼鉄を製造した炉である。発明者スタッサーノに幸運が訪れなくとも、どうか彼の名をこの世に留めイタリアに栄光を与え給わんことを1900年」。白いペンキで書きつけられたスタッサーノのアーク炉の美しさ、そして1950年のヴォバルノ・ファルク鉄鋼場内部を再現した「ファルクの部屋」に整列する、壮麗な歯車の数々に、機械文明への人類の憧憬を見る。
大学の頃、時間が出来ると鶴見線に乗って芝浦のコンビナートに足繁く通った。運河の対岸に立ち並ぶ巨大なコンビナートのシルエットは、青空に映え途轍もなく美しく、どれだけ眺めても飽きなかった。当時からコンビナートの向こうに、イタリア未来派が賛美したダイナミズムやボッチョーニの彫像を思い描いていた。
1月某日 ミラノ自宅
朝5時過ぎに起きて米を炊く。日本風のご飯を用意するため、少し多めの水で常に中火で炊き、蒸らす。最初と最後に火力を上げると当地の米では粘り気が出ないと家人に教わる。彼女が未だ東京なので、息子が日本人学校に持参する弁当を毎朝作る。野菜を炒めながら生姜焼きのタレを作って豚肉を漬け、家人作り置きのブロッコリーやらハンバーグを解凍する。野菜炒めが出来たら肉を焼き、ご飯に合うよう、わざと半熟のまま仕上げた醤油と砂糖で味付けを濃い目につけた炒り卵風を用意する。
生姜焼きと野菜炒めを一緒に作ればよいと思うが、味が雑ざるのが厭だとかで別々に作って呉れと注文がついている。もう二年も口にしていない食肉は味見すらできないので、適当に頃合いを見てフライパンを火からおろす。それらを弁当箱に詰め階下の息子を起こし、上着を羽織ってパン屋に自転車を飛ばし、朝食のチョコパンを買いにゆく。息子が朝食を摂る間にシャワーを浴び、大学の用意をし8時過ぎに息子を自転車の後ろに乗せ、日本人学校の手前まで乗せてゆく。何でも本来は自転車で通学してはいけないそうで、二人乗りで学校まで送ってもらっていると見つかりたくないらしく、近くの交差点で下ろしてくれと言ったり、どこかに日本人の父兄を見つけると、ここで下ろしてくれと背後から突然騒がれたりもする。
そうして学校に着いてレッスンを始めるころには、既に大仕事を終えた安堵感が訪れる。世界中どこも、朝の子育て風景といえば凡そこんな感じなのだろう。指が動くのが嬉しいのか、息子は誰に言われたわけでもないハノンを、何時までも嬉々として弾いている。
1月某日 ミラノ自宅
学校でのレッスンが終わって、角の喫茶店で音の輪郭について浦部君と話す。指揮の拍に合わせて発音された音を拡大すると、輪郭に見えていたものが実は目の粗い粒子の集りだと気づく。周りの空間と分離しないので、浮上がることもない。音の輪郭に焦点を合わせ、そのピントがずれないように音を発音すると、輪郭が周りの空間から分離し、浮かび上がらせることもできるだろう。
目の粗い点の集合では、ザルのように内部の質感も量感も、外部に洩れだしてしまうが、輪郭があれば、それらが外に流れ出ることも防ぐので、音のそのものの重量を肌で感じることができる。
警官との諍いで命を落としたエリック・ガーナーに衝撃を受け、数年前大石さんのために書いたバリトンサクソフォン曲を、ニューヨークの演奏会に向け、演奏時間を短くしたアルトサクソフォン作品として書直す。ゴスペルとアメリカ国歌を変容させ紐状に撚ったものを十字架状に交差させる。繰返しのない一筆書きの長大な音列は割愛できなくて、楽器と音価を書き換え時間軸に新たなねじれを加えた。数年前吹雪くハーレムでこの曲を考えていた頃、現在のアメリカの姿は想像できなかった。
1月某日 ミラノ自宅
自転車をとばし、国立音楽院横の「情熱の聖母」教会にFの葬式に参列した。Fは音楽院のヴァイオリンの同僚で、子供のような純真さと優しさを湛えて、学生たちから慕われていた。入口で台帳に名前をしたため教会の戸を引くと、学生たちが奏でる弦楽合奏が聴こえる。ヴィヴァルディだった。
空いている席を探して「隣、空いていますか」と紳士に声をかけると、オーボエの同僚Tだった。彼とFと一緒に何度演奏会をやっただろう。もう随分昔の話になる。すぐ目の前、祭壇の左手前には、卒業した懐かしい学生たちも在学生に交って弦楽合奏に加わる。こんな機会でなければ、再会の機会もままならないのが恨めしい。
棺に振りかけた香炉から立ち昇る煙が、クーポラの天窓から射込む正午の太陽を受け、くっきりとした直線を映し出し、まるで宗教画そのままに神々しい。神父が神秘によってFは天上の眩い食卓の饗宴についたと繰返す間、すぐ傍らの女性は肩を震わせながら泣きじゃくっていた。
1月某日 ミラノ自宅
病気で夫を亡くしたMに会いに行く。独りで暮らすのは余りにも侘しい、想い出の詰まったこの家を売払い静かに暮らしたいと涙を溢した。
家人は彼が残した旧いピアノ譜の中から、ロンゴの編纂したバッハ曲集、モンターニの編纂したショパンのワルツ集、タールベルクの「カスタ・ディーヴァ」、コルトーに捧げられたアルベール・レヴェック編「羊は安らかに草を食み」を貰って帰ってきた。
親しかった二人の別離に際し、狭野茅上娘子と中臣宅守の相聞歌を使って、数年前に幾つか連作をした。クラリネットとピアノのための二重奏を書き、続いて狭野茅上娘子の歌で五絃琴の、中臣宅守の歌で七絃琴の曲を書いた。
昨年秋、いままで別々に演奏されてきた五絃琴と七絃琴を、初めて一緒に並べて舞台で聴いて、不思議な安寧と感激をおぼえたが、昨晩クラリネットと二重奏で演奏してきたパートを、アルフォンソがピアノだけで弾き続けるのを初めて聴いた。ただ流刑地の暗闇に空しく吸込まれてゆく相聞歌は、都で待ちわびる妻に届くことはない。
今朝、二年前に加藤真一郎君が演奏した旧作の動画が届いた。これを難病で苦しんでいた同級生の死を悼んで書いたことを思い出し、加藤君の演奏の深さに圧倒される。
(1月31日ミラノにて)