しもた屋之噺(228)

杉山洋一

真っ暗な闇に、満月が煌々と輝いています。
年末に緊張しながら日本へ発った時、一月後に臨むこの静かな佇まいの月など、到底想像できませんでした。
日本に戻れば自主隔離で出かけられず、祖父母にすら会えない。漸く再開された残り僅かな学校の授業も、音楽院の対面レッスンも受けられない。オンライン授業も日本で受ければ8時間の時差で毎日真夜中になる。それ位なら一人でミラノに残らせてほしい、と真顔で息子に言われたときは、流石に言葉に詰まりました。
彼の言い分は至極尤ですが、Covid-19の第二波がやっと落ち着いたばかりのミラノに息子を置いてゆくのに、不安に駆られない方が難しいでしょう。
そんな複雑な状況にあって、Hさんに息子の食事をお願いできたのは本当に幸運で、ただ感謝あるのみです。
医者の友人たちも、万が一の時には力になると励ましてくれていたものの、運を天に預ける思いで夫婦共に気の落着かない、忘れがたい一ケ月となりました。
今日の日本の状況を鑑みれば、息子の選択は正解だったと思いますが、今後何かにつけ、正しい選択など分からない日々が続くかと思うと、やり切れません。

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1月某日 三軒茶屋自宅
夫婦共に三軒茶屋で自宅待機が続く。息子のいない夫婦だけの正月は初めてで落着かない。林間学校やキャンプに送り出しているならいざ知らず、それぞれが感染症にまみれた街で離れて暮らすのは、気が気でない。
尤も、たまに連絡をすると、ごく普通に暮らしているようだ。
級友も揃って息子が一人と知っているので、毎日一緒にオンラインで集っては勉強などして寂しくないという。学校の皆さんにも感謝に余りある。
昨年、家族揃って祖父母と正月を過ごせて、本当に良かった。
目を皿のようにして、武満賞の譜読みをするが、間に合うか分からない。
ミラノの息子は、Hさん宅で、我が家で見たこともない豪華豪華絢爛なおせちを頂いていて、深謝。Hさんが、大丈夫よ、今までよりずっとしっかりするからと大きく構えて下さっていて、我々も漸く足を踏み出せた。ただただ有難い。

東京都の新感染者数783人。衝撃的な数字との都関係者のコメント。全国の新感染者数3106人。死亡者54人。
イタリアの新感染者数22211人で陽性率14,1%。462人の死亡者。ミラノは年末年始の移動規制もあり1月4日のみオレンジゾーンで、その後1月6日までレッドゾーンが続く。

1月某日 三軒茶屋自宅
工藤あかねさんより連絡あり。ブソッティ曲中のアルメニア語テキストを、オンラインでスイス在住アルメニア人に稽古してもらったと言う。
「発音するのが楽しい言語なので、原語のまま音を当てたい」 と頼もしい。

東京都の新感染者数884人で2人死亡。全国の新感染者数3302人。死亡者56人。イタリアの新感染者数10800人で陽性率13,8%。348人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
朝、イタリアから持ってきたパネットーネ二個を水町さんに渡す。自宅待機中なので、玄関外に荷物を置き、持って行ってもらう。
昨晩は「アフリカからの最後のインタビュー」三重奏版をインターネットで拝見。楽器二人にエレクトロニクス一人であっても、クラシックの三重奏と同じく、より能動的で有機的な関係が互いに必要となるのが面白い。ヘッドフォンで聴くと、エレクトロニクスが驚くほど直截で生々しい。

東京都の新感染者数1591人で8人死亡。全国の新感染者数6001人で65人死亡。イタリアの新感染者数20331人で陽性率11.4% 649人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
菅首相が、東京都と近隣三県に非常事態宣言を決定。福永さんに電話して、悠治作品演奏会開催について話す。
政府からの演奏会自粛要請、もしくは演奏者から延期を希望されない限り開催の意向と伝える。
延期しても、将来の感染状況は分からず、リハーサルが始まっていれば、関係者に陽性者が出れば、全員が濃厚接触者となり演奏会は中止になるかもしれない。
第一、半年後、一年後、自分自身が陽性になる可能性も充分にある。ワクチンに期待するのは、もう少し先の話だろう。
だから、現在開催できる状況にあるのなら、聴衆いかんに関わらず実現しなければ、今後は誰も保証できない。演奏者の理解が得られるなら、感染対策をして演奏会はやるべきだと思う。
トランプ支持者が議会乱入。

東京都の新感染者数2447人で11人死亡。日本全体で7570人。死亡者は64人。
イタリアの新感染者数18020人で陽性率14,8% 414人の死亡者。ミラノは今日と明日のみイエローゾーンに緩和され、レストランも再開されるが、明後日からオレンジゾーンに戻り、飲食店は営業できない。

1月某日 三軒茶屋自宅
昨年耳の訓練の授業を教えた弱視の女学生より、指揮を勉強したい、入試を準備したいと連絡が来て、答えに窮している。耳はよいが、直接オーケストラとアイコンタクトを取らずに指揮が出来るか、出来ないか、正直わからない。確かに、指揮者で目が悪かった人は沢山いたし、今もいるだろう。流石に、弱視はまた別かも知れない。彼女がやりたければ、どんどん挑戦すればよいとも思う。可能性は他人が予め決めるものでもないだろう。

東京都の新感染者数1219人で重傷者131人。日本の新感染者数4876人で48人死亡。大阪、京都、兵庫への緊急事態宣言発令を検討。
イタリアの新感染者数12532人で陽性率13,6% 448人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
covid-19に対する政府の給付金は有難いが、我々が払ってきた有限の税金を、我々が自身が現在のように使うのが本当に適切か、考える必要はあるかもしれない。
パンデミックが起きると、国力、経済力を痛感する。医療体制から、ワクチン購入や経済支援と、人と資金が潤沢かどうかが利点に大きく作用する。
政府の資金に余裕があるならいざ知らず、今後も不足分を政府が刷って補えばよいだけなら構わないが、将来的にそれだけで安心してよいのか、無学故に、些か不安も過る。
コロナ禍に於いて、減給される医療関係者を生み出すべきではないし、満床の病院を手を拱いて眺めている場合でもない。
欧米と比べ感染者や死亡者数がずっと少ないのに、既に施されるべき治療が受けられない現状こそ、一番の問題ではないのか。

一日かけて悠治さんの「橋II」を拍子分けする。元来拍子なしで書かれていたが、指揮をすると決めたので、便宜上拍子が必要になった。
同時に、隠れていたフレーズや息遣い。思いがけない対位法的やり取りが浮かび上がる。躓くようなリズムは、既にこの頃に生まれていた。
思いがけず複雑な譜割りになり、書き込んだ楽譜をスキャンして演奏者に送る。
当初、悠治さんはどのように演奏する積りだったのだろう。指揮なしで演奏するには、楽器間の同期指示が多い上に、指定の速度は極端に早い。
自分でも振れる自信はないが、遅いテンポから少しずつ練習してゆくと、風景が見えてきた。

有馬さんより連絡を頂く。「フォノジェーヌ」テープ3は、スコアに書かれた6’44’’ではなく、6’43’’から始めることになった。よって以降全て1秒繰り上がる。曲尾は、スコアの指示9’51’’より元素材そのものが短く、9’25’’で終わる。

東京都の新感染者数970人で重傷者数は144人に増加。2人死亡。日本の新感染者数4539人で64人死亡。イタリアの新感染者数14242人で陽性率10,05%、 616人の死亡者。今日まで791734人ワクチン接種。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティリハーサル初日。最初の練習で「肉の断片」を止まらずに最後まで演奏できて驚く。全体は俯瞰され、各演奏者の音への興味が具体化してゆく。事象の連続から、有機的に絡む構造物へ変容する。ためらいや衒いが抜けて姿を顕す、思いがけず濃密な時間。
日野原さんとやりとりしつつ、ブソッティのテキストを訳出。

Un ragazzo per moglie
娶られた少年

ぼくと     果てしなく
官能のおもむくまま お前は裏切った
不在の愛人を
われわれが「良人」と呼んでいた
あの情人を 

愛を重ねたい 幾度も
幾度も それはまるで 
お前の調子っぱずれの歌声が
耳を つんざき
乱暴に やさしく
お前を 突き立てながら
下から お前を求める

男性至上主義の 哲学
南国的な 固定観念
女神的な 美学
女性的な 喜び
天国的な 尻臀

破壊し 縫合する
ブオナローティの言葉を借りるなら
《舌先で くびれで いたみで
性器で 瞳で 門歯で》
1920年代の肉体の
性愛に 飽くなき
疲れ知らずの ローマ風の接吻のなか

すべては うまれた
とある惣菜屋
揚げ物並ぶ 店先の
一年つづいた 眼差し
倒錯した 空虚な夢は

すべての欲望を 焼き尽す
娶られた少年の  野蛮な作法 
お前の番に お前はいない
ぼくは 心震わせ 腰をおろす
この地上の たった一つの岩の上に
お前のことを 思いかえす
それが お前を想い お前を見るということ

1983年 7月23日 トーレ・デル・ラーゴ
2003年 12月11日 16時 ミラノにて書写
(官能的な期待のなか
沈みゆく太陽のもと)
斜光差し込む 樅木通り
(日野原、杉山共訳)

当初、当惑しつつ訳出していたが、一度書き下して距離を置いて眺めると、生々しい表現の奥に、恋人への純粋な愛情が溢れることに気づく。今は年老いた二人を姿を思い出し、素朴な感動を覚える。

東京都の新感染者数1433人で重傷者数は135人。日本の新感染者数5871人で97人死亡。ラジオでニュースを聞いて、思わず大声を上げてしまった。イタリアの新感染者数15774人で陽性率9% 507人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティを練習しているとき、もっと普通に記譜してあればリハーサルも効率的だとも思う。ただ、このように書くことで生まれる固有の表現は確かに存在する。手稿を見ながらバッハを演奏するようなものだろうか。暫く続けていると、自分が読めるようになればよい、と頭が切り替わる。歌垣のCDがとどく。松平さんが、中川さんの楽譜のようだと繰返していて、なるほど面白い視点だと思う。

東京都の新感染者数1502人で重傷者数は135人。3人死亡。日本の新感染者数6005人で66人死亡。数字を聞き続けていると、感覚が麻痺してくる。イタリアの新感染者数17246人で陽性率10,7% 522人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティ演奏会。全体を通すことで炙り出される、音の美しさ。Voix de femmeは実に丹念に、有機的に音がからむ。
図形楽譜と一括りにされるけれど、ブソッティに関しては、愕くほど有効に、そして定着された楽譜との整合性を保って挿入されている。
日野原さん曰く、ブソッティは自らの即興をそのまま楽譜に定着し、耳で書いてゆく部分が多いという。
ブソッティもドナトーニも、齢を重ねて日本人の助手を選んだのは妙な因縁だ。

東京都の新感染者数2001人で重傷者数は133人。10人死亡。日本の新感染者数7133人で78人死亡。イタリアの新感染者数16146人で陽性率5,9%へ急激な減少。 477人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティ演奏会後、夜、自宅で武満作曲賞のファイナリストとズームで話す。練習が始まる前に作曲者と指揮者が話してもあまり具体的にならないので、互いに手探りで話すが、わからない奏法や記譜などを確認する。
東京都の新感染者数1809人で重傷者数は136人。3人死亡。日本の新感染者数7014人で56人死亡。イタリアの新感染者数16310人で陽性率6,3% 475人の死亡者。ミラノは再びレッドゾーンになり、息子は遠隔授業を受けている。

1月某日 三軒茶屋自宅
中国在住のシンヤン君だけが日本に入国できた。書き込みした楽譜をヴィデオに撮らせてほしいと、全頁をヴィデオに撮っている
最初のリハーサル中マスクが苦しく、途中から意識がぼんやりして、自分自身身の危険を感じた。
二週間の自宅待機で体力が落ちている上に、夏に使っていたウレタンマスクではなく、不織布マスクで呼吸に負担がかかったのか。
オリンピック選手もこれでは大変だ。

Rさんより連絡あり。肺炎で入院していた、ご高齢のお父さまが退院の見込みとのこと。本当に良かった。

イラリアの訃報。「お前、今日本だよね」と号泣したTより夜電話がかかる。
もう長い間イラリアには会っていない。最初に彼女と知り合ったとき、彼女は未だ高校生だった。
Tの妹は、聡明でお転婆な女の子で、皆で何度遊んだか、食事したか、思い出せない。
カルヴィーノやエーコについて、何時までも彼らの両親と夜遅くまで話し込んだのが懐かしい。イタリアに住み始めたばかりで、家族のように接してもらった。

Tとはあれからも常によき仕事仲間で尊敬しているが、互いに仕事が忙しく、なかなか会えなくなった。
彼女も社会人となり結婚して充実している、と大分前にTから聞いていた。でも俺は間違っていた、もっとみんなで会うべきだった、と電話口で泣いている。こんな彼の姿を見たのは初めてだった。
ちょっと読んでくれ、と、彼女が逝く直前に送ってきたメッセージを転送してきた。

「わたし、この苦しい毎日にあって、今まで旅してきたことが自分にこんなにかけがえのないものになるなんて、思ってなかった。
この3日間ばかり本当に辛かったけれど、その間わたしから離れなかった酸素ボンベのゴボゴボいう気泡音がね、ずっとわたしを京都に連れていってくれるのよ。
庭で雨水の打つ音、そしてまた打つ音があるでしょう。繰返すとても心地良い音なんだけど、今になって、やっとわかったの。どうして日本の映画で、この雨の音がしつこいくらい使われているか。
どんな我慢を強いるのかは、よくわからない。でもこの音がなければ、わたしは耐えられないの。
この音が途切れた風景の遠い遠い世界に、わたしを再び誘ってくれるの。このかすかなリズムが、いつかわたしをこの悪夢から連れ去ってくれるといいな」。

イラリアは明るい少女だったが、生まれてからずっと、血液の難病と戦っていた。
T曰く、秋に陽性がわかって以来、Covidのせいで持病の治療も、持病のせいでcovidの治療も儘ならなかった。それでも大分持ち直してきて、大丈夫だろうと安心した矢先、年末に急激に体調が悪化して帰らぬ人となった。

イタリアの新感染者数12545人で陽性率5,9% 377人の死亡者。この数字の中にイラリアもいるのかと思うと、やりきれない。
東京都の新感染者数1592人で重傷者数は138人。5人死亡。日本の新感染者数5759人で49人死亡。

1月某日 三軒茶屋自宅
武満賞のため、スペインとロンドンと遠隔リハーサル。演奏動画はVimeo経由で送って会話はzoomを使う。
指揮台脇にマイクとモニター。演奏者などを撮影するカメラは舞台下手の2階にあつらわれた。
zoomは、ほぼ時間の誤差なしに会話できるが、高精度のvimeoの音声は、相手に届くまで30秒ほどかかり、実際の距離感を実感する。
ヘッドフォンをつけ、こちらの演奏に聴き入っている作曲者は、こちらが演奏を終わって30秒経たなければ、演奏が終わったと気が付かないので、黙って待つ。
そうして、ヘッドフォン中の演奏が終わると、vimeoを聞いていたヘッドフォンを外して、zoomを会話をする。スムーズにはいかないので、リハーサルの効率を考え、最初に細かい練習をし、通し稽古まではこちらで引受け、その後少し作曲者の意見を聞くことにする。
東京都の新感染者数1204人で重傷者数は133人。3人死亡。うち一人は自宅療養中の容態悪化で搬送先機関にて死亡確認。日本の新感染者数4925人で58人死亡。イタリアの新感染者数8824人で陽性率5,6% 。昨日と同数の377人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
武満賞演奏会。舞台前方2階に巨大なテレビモニターを4枚並べて設置してあり、それぞれ別のzoomで作曲者や審査員と繋がっている。
東京の感染状況が酷いので、ずっと両親にも会っていないし、演奏会にも呼んでいなかったが、今日の演奏会は会場も広く、聴衆も少ないと聞いたので、気分転換になればいいと車を用意して両親を招く。
演奏会後に電話すると、思いがけず明るい声で興奮していて、こちらが愕いてしまった。物凄い喜びようだったから、やはり会場で直接体験する音楽は、何物にも替え難いのだろう。

最後にカルメンの候補曲を演奏している際、彼女曰く涅槃の世界に差し掛かったところで、ふっと亡くなった恩師や友人たちの顔が音のまにまに浮かんできて、最後には若いころのイラリアの笑顔もうっすら見えた。音楽とは不思議なものだ。

歳をとるというのは、こういう事なのか。以前は天使や聖人が天国で並んで出迎えるカトリックの宗教画がまるで理解できなかったし、悪趣味にすら感じていたが、何時の間にか、河の向こうで皆が待っているのが理解できるようになってきた。

東京都の新感染者数1240人で重傷者数は155人。16人死亡。日本の新感染者数5321人で104人死亡。イタリアの新感染者数10497人で陽性率4,1% 603人の死亡者。ここまで陽性率が下がっても、亡くなる人は増えてゆく。いくら引揚げても後ろに続く地引網が、死者を無下に絡めとってゆく。中世の死の舞踏の絵を思い出す。

1月某日 三軒茶屋自宅
早朝から、「フォノジェーヌ」譜読み。本来一つぶりで書かれている楽譜を、4小節ずつまとめて4つぶりにすると、楽曲のフレーズが浮き上がる。音の密度はとても濃い。
「橋2番」を練習すると、どうしてこれほど難しく書かれているか恨めしくなる。演奏の決定はこちらの事情だから、作曲者に文句も言えない。
「フォノジェーヌ」も「橋2番」も、弦楽器群は、弓を使うグループとピッツィカートのみのグループに分けられていて、交わらない。
音をパラメータ化していたのがよく分かるが、このように合理的に分けられている作品も珍しい。

東京都の新感染者数1274人で重傷者数は160人。10人死亡。日本の新感染者数5550人で92人死亡。イタリアの新感染者数13571人で陽性率4,9% 524人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
高橋悠治作品演奏会リハーサル。悠治さん曰く、「橋2番」の完全四度集積の和音は、出来れば純正な響きが望ましいそうだ。
「こういう曲だったのね」、と最初に呟いていらしたのが印象的だった。
旋律を紡ぐための決まりはあったが、リズムは自由に書いたと聞き、どう自由に書くと、こんな複雑なリズムになるのか不思議に思う。

帰り道、悠治さんと話していて、その昔サンディエゴでカスティリオーニの「Cangianti」を弾いたときの話になった。
当時、カスティリオーニもサンディエゴに住んでいたが、カスティリオーニは道に迷って、辺りを何時間も歩き回った挙句、演奏会には来られなかった。

これからどうなるかという話になる。
コロナ禍は戦争とも言われるけれど、世界大戦後、どうしてあれほど皆元気で、希望に燃えていたのかと尋ねる。
「全て焼けてしまったから、一から作らなければいけなかったし、戦争が終わって嬉しかったからね。活気があった」。
外に目をやると、市ヶ谷辺りの風景は、コロナ禍以前と変わらない。
ただ閑散としているだけで、ビルも焼け落ちていない。
ただ、一見何も変わらない表面をめくれば、溜まっていた以前の澱が異臭を放ち始めている。

東京都の新感染者数1471人で重傷者数は159人。7人死亡。日本の新感染者数5653人で94人死亡。イタリアの新感染者数14078人で陽性率5,2% 521人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
悠治作品演奏会リハーサルが終わり、帰りの電車で、母が送ってきたパオロ・ジョルダーノの「コロナ時代のぼくら」を読む。
Corriere della Seraに寄稿していたコラムを集めたもので、当時ウェブ新聞上でお金を払わず読んだ部分は何となく覚えていた、
まあ妥当な内容だと思いながら読み進み、あとがきになって、突然ひきこまれる。
一般新聞購読者向けに書いたコラムのあとがきにだけ、彼の直截な心情が表現されていたのかもしれない。あとがきに心を動かされるのは初めてだ。

Rさんよりお父様退院の知らせ。退院直前の元気そうな写真も送られてきて嬉しい。PCR検査でCovid-19陰性と聞きほっとした。
自宅に戻られると、早速Rさんが目を離した隙に、時計を直そうとベッドに立ち上がってバランスを崩したとか。お元気なのは嬉しいが、気力余って少々心配。

東京都の新感染者数1175人で重傷者数は158人。9人死亡。渡航歴のない都内の女児よりイギリスの変異種確認。陽性判明後12日間入院調整がつかなかった90歳代女性死亡。日本の新感染者数5045人で108人死亡。イタリアの新感染者数13633人で陽性率5,1% 472人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
朝、オランダの後藤さんの訃報を受取る。俄かには信じられない。仲間内では一番アウトドアで行動的だったし、想像ができない。
京ちゃんに連絡すると、電話口で絶句している。

酷い雨だが、自転車で幡ヶ谷へリハーサルに出かける。
「白鳥」は、二人の演奏者の距離を思い切って離してみると、とても弾きやすくなって、羽ばたくおおとりの姿が浮かび上がる。
フォノジェーヌでは、テープをアンサンブルがなぞる実感を共有するだけで、それまでまちまちだったアンサンブルの音が急に纏まる不思議。
左奥歯が痛い。

東京都の新感染者数1070人で重傷者数は156人。9人死亡。日本の新感染者数4717人で83人死亡。
イタリアの新感染者数13331人で陽性率4,6%。 488人の死亡者。現在までの死亡者数は85000人を超えた。

1月某日 フランクフルト行機中
炒めたジャガイモに卵を載せ、朝ご飯。トランクに荷物を詰め、正午からのドレスリハーサルに出かける。東京文化会館の響きは本当にすばらしい。

会場で聴くと、音の位相を次々に変化させてゆく「橋3番」は心躍るような響き。本番会場の響きのなかで「うなり」をどのように聴かせるか確認する。悠治さんは、和音ではなく、一つの音の紙縒りのように聴かせたいと伝える。

「橋2番」の冒頭を少しだけ弾いて、悠治さんに意見を求めると、「これが書かれている速度ですか」と質問される。
書かれているテンポはもう少しだけ速いと答えると、「もっとゆっくり弾いてみてほしい」と言われて、一同拍子抜けした。
表示の速度は16分音符480とあり、かなり速く練習しておいたお陰で、遅めに弾くと、余裕をもって音楽的に演奏できるようになった。

演奏会で聴いていて特に印象に残ったのは、「フォヌルループ」と「白鳥」だろう。
「フォヌルループ」は、ドレスリハーサルのとき、文化会館の壁面のオブジェをなぞるように、ちょっと即物的に、感情を敢えてこめずに試してもらったところ、突然音が明るくなり、音の纏う空気が流れ始めた。本番に至っては、音の方から自由に空間を動き回っているようにすら感じられた。
最初の練習から、悠治さんは一貫して、これは弾いていて面白いですか。面白く弾いてみて、と言ってらしたが、演奏者は本番はとても面白そうに弾いていた。

「白鳥」では、般若さん曰く、本番の魔法なのか、普段と全く違う世界へ自分が連れて行ってもらった感じだったという。般若さんがお経を唱えるのが、個人的にとても気に入っていた。洒落ではなく似合っていた。

「橋2番」も、弦楽器は、弓を緩めてフラウタートで弓を多く使い、音を弦上で止めるようにして、管楽器であれば、舌で振動を止めて音を切ることで、余韻を残さないよう遅めのテンポで演奏すると、何とも不安定な、悠治さんらしい表面が一定でない音楽が紡ぎだされて面白い。作曲者の言葉は、やはり何物にも替え難い深さがある。
楽屋では、須山さんが大好きなカニーノの話に熱中していた。

演奏会後、無人で暗い空港に暗澹としながら、羽田空港のベンチで弁当を食べる。
電光掲示板には、乗込む0時50分発フランクフルト行のすぐ下に、0時55分発ミラノ・マルペンサ空港行と書かれていて、運行状況欄は「運休」とある。

東京都の新感染者数986人で重傷者数は156人。3人死亡。日本の新感染者数3990人で56人死亡。イタリアの新感染者数11629人で陽性率5,3% で299人の死亡者。ミラノは今日からオレンジゾーンに戻り、息子も今日から登校。家に着く頃、彼は学校に行っているはずだ。

1月某日 ミラノ自宅
ミラノの家につく。
リスに胡桃をやると、すぐに樹から降りてきて食べている。
昼食に、ニンニク、アンチョビーに乾燥トマトの油漬けを併せ、食べる直前、存分にチーズをかけて簡略なパスタを作る。
こんな粗食に思いがけず甚だ感激するのは、緊張が解けたからか、日本に戻って大根の味噌汁と豆腐屋の美味い木綿豆腐を食らうようなものか。
一ケ月ぶりに息子に会うが、ひと月一人で暮らしていたというのに、再会しても互いに別段大仰な感慨もなく、ごく自然に以前の生活に戻ってゆく。
家族とはそんなものか。一ケ月離れていたのもすぐに忘れる。
帰宅直後は、自分の皿を自分で片付けたり、残っていた洗い物を洗ってくれたりして、驚天動地の思いだったが、程なく以前通りに戻ってしまい、寧ろ安心もしている。

東京都の新感染者数618人で重傷者数は148人。14人死亡。そのうち4人は自宅療養中だった。日本の新感染者数2764人で74人死亡。イタリアの新感染者数8561人で陽性率5,9% で420人の死亡者。

1月某日 ミラノ自宅
林田さんに宛てたお返事から。
「知とは、昔から言われる通り、知らないことに気づくことと痛感しました。知っているつもりで、実は何もしらなかったとを知る、それにつきます。若い演奏家たちは、悠治さんを演奏するたびに好きになっていくようです。彼らからすれば、知らなかった音楽の在り方をしることなのでしょう。僕らからすれば、知っているつもりの高橋悠治を、何も知らなかったと知ることなのでしょう。
知識など、澱のようにどんどん下に溜まってゆき、腐臭を放つものだと思います。悠治さんの細胞が半世紀前から今まで同じわけがない。当たり前なことですら、実演に接して漸く理解できることが沢山ありました。
古典についても同じだと思うのです。バッハだって、生きているなかで、まるで違う音楽に変化していたかもしれない。正しいバッハ像、モーツァルト像、ハイドン像、シューベルト像なんてありえないのです」。

市立音楽院で教えているのは、エミリオから学んだことを、同じ場所で若い人に伝えていく必要を感じているからだろう。悠治作品の演奏会を続けてきたのも、それに近いことかも知れない。
こうして自分は、無知のまま馬齢を重ねる。

東京都の新感染者数1026人で重傷者数は148人。13 人死亡。日本の新感染者数3852人で104人死亡。イタリアの新感染者数10593人で陽性率4,1% 541人の死亡者。

1月某日 ミラノ自宅
EUが日本からの渡航を原則禁止を発表。日本政府は非常事態宣言一ケ月延長の検討に入った。
胡桃を食べ終わったリスが庭に面したガラス戸前にきて、達観したように5分ほどこちらをじっと眺め、蔦の中に戻ってゆく。先日は外に置いていたエケベリアの葉を齧っていたから、慌てて部屋に仕舞った。
そのエケベリアの鉢の下敷きに雨水が溜まっていて、毎朝リスとツグミが交替でやってくる。リスは美味しそうに水を飲み、黒ツグミは水浴びをする。こんなに寒いのに大丈夫なのかと不安になる。
犬を散歩に付き合う人たちも犬につられて立ち止まり、寒空の下、じっとリスを眺めている。
東京都の新感染者数868人で重傷者数は147人。17人死亡。全国の新感染者数3539人で96人死亡。イタリアの新感染者数13574 人で陽性率5,05% 477人の死亡者。

1月30日ミラノにて