しもた屋之噺(237)

杉山洋一

庭の土壁を這う蔓の葉もすっかり濃い朱に染まり、梢に垂れる葉からは愈々青みが抜けて、黄緑色、黄色がモザイクのように輝きます。ミラノも深秋らしくなってきましたから、直に乳白色の霧に包まれるに違いありません。

10月某日 ミラノ自宅
前から見たかった1967年イタリア国営放送制作、マンゾーニの「いいなづけ」を見つけた。
サルヴォ・ランドネ扮するインノミナート(名無し)がマリオ・フェリチァーニ扮するボッロメーオ枢機卿に対面して改心する場面など、彼らが劇場で盛んに演じていたシェークスピア劇を彷彿とさせ、恰もヴェルディのオテロを見ている気分で、思わず涙をこぼしてしまった。
「Berceuse」全体の構想は未だ糢糊。今日はブソッティ90歳の誕生日で、今年初めに東京で試演した「和泉式部」断片のヴィデオ公開。実際に音にすることで見えてくるものがある。そして、それを一定期間おいて、改めて見直すことから浮き上がって見える本質もある。
 
10月某日 ミラノ自宅
「Berceuse」のため、中国、イギリス、南アフリカ、ブラジル、インドの民謡を採譜。中国は東北地方の、南アフリカはズールー人の、インドは南インドはタミル語の揺籃歌。特にインドの寝かせ歌は国土が広いせいか無数にあり、どれもそれぞれに美しく、深く心を動かされる。世界はこれほど美しい旋律に溢れていて、我々は何故いがみ合っているのか。ふと、不思議な心地に囚われる。誰が誰に向かって書いているのか、自問自答を続けている。
 
10月某日 ミラノ自宅
東京で震度5の地震。息子が間一髪で自宅に着いていたと知り安堵。さもなければ、馴れない土地で電車も止まり、途方に暮れていたに違いない。
首から肩にかけての神経が攣れがどうにも我慢できなくなり、イタリアで初めて歯医者に出かけたところ、いきなり親知らずを抜かれた。歯の治療についてなど全く明るくないので、自転車くらい漕げるだろうと高を括っていたが、家はナポリ広場の先だと言うとかなり驚かれ、麻酔が切れないか心配された。
 
10月某日 ミラノ自宅
自分の掌や腕などが、何時の間にかすっかり皺だらけになっていて皮膚も萎びたさまに、重ねてきた馬齢を見る。それは仕方がないが、頭の中まで干乾びて草臥れているのかしら、と少し虚しくなったのは、歯医者と縁遠かった人間が抜歯で意気消沈しているからか、夜半に歯痛で目を覚ましたからか。
 
10月某日 ミラノ自宅
ルイス・デ・パブロの訃報。自分がミラノへ越して来た頃までは、毎年のように、市立音楽院でデ・パブロやファーニホウ、ドナトーニが作曲講習会を開いていた。正確に言えば、ファーニホウとドナトーニのセミナーは、ミラノに留学する前年に終了していたが、それまで長い期間ミラノで定期的に講習会を開いていたのは知っていた。だから当時、ミラノの若い作曲学生の間では、ドナトーニとファーニホウを併せたような作風が盛んに書かれていたけれど、そんな当時の雰囲気は、現在の学生らには想像もできないに違いない。
ミラノに関して言えば、あの後暫くして、フランスからグリゼイやデュフール、ドイツからラッヘンマン、イタリア国内からはシャリーノが盛んに演奏会や講習会をするようになり、若い作曲家たちの作風も大きく影響を受けた。それも一段落して、最近は彼らの薫陶を受けた世代、ジェルヴァゾーニやビッローネ、フィリデイ、ランツァと言ったより若い世代に引継がれている。
インターネットが流布する以前の方が、文化の差異がより明確だった分、国際交流も必要とされ、活発だったようだ。垣根がなくなり、「交流」という敢えてエネルギーを伴う運動ではなく、肯定的な意味において溶解や同化、つまりフュージョンへ進化してきた感覚を覚える。

デ・パブロとは随分長い間手紙のやりとりをしていた。
97年8月29日の日記。
「デ・パブロ先生から手紙を頂く。
先生はご自分の住所を灰色のインクで印刷した趣味の良い封筒に数枚の美しい絵端書を入れ、その裏に小さな字で色々と認めて下さる。
先生の丸みを帯び絡まった筆致はご自身の音符に良く似て、どことなく鄙びた風情を醸し出す。
先日お送りした拙作に関しての批評を丹念にお書き下さり、毎度乍ら恐縮する。
ルイス・デ・パブロと言えば、現代音楽を齧った人間には馴染み深い名前。カタラン人で今はマドリッドに住んでいて、武満さんなどの招待で何度か来日もしている。今世紀の最も偉大な作曲家の一人と言っても過言ではない。
初めて先生に御会いしたのは、去年の初春だったろうか。先生の出版社がミラノにある都合で当地に寄られた際に講習をされ、何度かゆっくりお話しするうち、手紙をやりとりする様になった。
自作に関する先生の分析はロジックに終始し、主観については何も仰らないのに、いざ音に耳を傾けてみると聴こえてくるのは先生の心の滾りばかりなのであって、圧倒された。とても言葉では言い表せない衝撃だった。
一つ一つの音に彼の感情が刻み込まれていて思わず胸が一杯になる。
音楽に携わる幸福に心から感謝する瞬間だ。

早朝、先生はいつも生徒より早く教室に入っては生徒の作品を眺めている。
昼食も独り早く済ませると、教室でやはり生徒の作品に目を通し、思ったことを備忘録に書き留めている。
夕方遅くに漸く授業が退けると、やはり生徒の作品を小脇に抱えホテルに向かう先生の丸い背中があった。
先生の音楽に対する、あくまでも真摯な態度に言葉を失い、自分を恥じた。
二人で色々な事を話した。
何度も訪れた日本の事。フランコ政権下での事。先生の情熱の事。亡くなったばかりだった武満さんのこと。
「先生について勉強したいです」と言うと「不器用だから教えるのにも体力が必要でね。一寸もう無理かなあ」
いつも限りなく温かい眼差しをしていらした。
先生がフランコ政権に国外追放され、長年米国のインディアナ大で教鞭を取られる前後にかかれた「我に語らせ給え」という弦楽合奏の総譜を頂き、暇を見つけては少しずつ譜読みをしている。」
98年1月25日の日記。
小さな教会の十字架の前で、デ・パブロを振る。
楽譜を開く前に脳裏に彼の顔が浮び、少し切ない気がした。
音でしか表現できない思いが、詰まっていて、薄くさざめく人の影。鮮烈な思いや迸る血潮。
言葉が見つからないので黙って録音を送ろうかと思っている。(ミラノ日記)

デ・パブロからの手紙だけをまとめてある封筒を久しぶりに開いた。
当時の文章を見ると、未だ音楽の実体が自分でも理解できずに、手を拱いているのがよくわかる。音に感情を籠める、音楽に自らの意思を反映させる術がわからず、途方に暮れていた。現在、それが分かったとは到底言えないが、自分なりの小さな指針は見つけたつもりでいる。
技術を学んでも、その先に音楽はない。もちろん、音楽を学んでも、技術を学ばなければ表現は成立しないが、あれから23年経ち、自らも教える身になってわかるのは、先に技術を学ぶのは間違っているということだけだ。併しながら、教え得る内容は、ただ技術だけだ。
日本は真鍋淑郎氏、イタリアはジョルジョ・パリ―ジのノーベル賞受賞のニュースで賑わっている。パリ―ジが、詰め掛けたサピエンツァ大の学生たちから大喝采を浴びる姿に心を打たれた。
 
10月某日 ミラノ自宅
昨年Covidで延期されたドナトーニ「最後の夜」再演のためのリハーサル。昨年の今頃、リハーサル時は都市封鎖が目の前に迫っていて、結局演奏会当日に封鎖が始まった。
そんな状況だったから、リハーサルは今よりずっと緊張感があった、とも言えるし、実際は気もそぞろだったかも知れない。今から思えば、ともかくリハーサルで気を紛らわそうとしていただけにも感じられるし、どう足掻いても演奏会は無理だ、と半ば腹を括るというのか、自棄になっていた気もする。
だからこそ昨年のリハーサルはとても意義があったし、何より演奏者が練習にかける集中度は並大抵のものではなかった。その意味を一年を経て痛感した。
明らかに今回の練習を通して、前回辿り着けなかった楽譜のその先にまで踏込むことができたからだ。歌手は音符を、楽器をなぞるのではなく、空間に漂う亡き赤子の姿を見出し、語りかけ、叫び、訴える。漂う粒子のまにまに見え隠れする、小さな身体を必死に探しながら。
 
10月某日 ミラノ自宅
ミラノ・ムジカ。ドレス・リハーサルをやってみて、エルフォ劇場が思いの外音響がよいことに愕く。この演奏会の前後、劇場はエリオ・ディ・カピターニとフェルディナンド・ブルーニが、シリル・ジェリーの戯曲「外交術」をやっていて、第二次世界大戦末期パリの外交官邸宅の書斎を模した舞台装置のなかで演奏した。「外交術」は「パリよ、永遠に」で映画化されているが、その中で即興的で大時代なホームコンサートを催す心地だ。
演奏会前半、会場でノーノの「夢をみながら歩まねばならぬ」を聴きながら、20年前に同じ音楽祭で演奏した「プロメテオ」を思い出す。同じ手触りの和音。同じ質感の持続。波長が変化しつづける光線のような音。旋律の襞を描かないから、そう見えるのか。
あの世代のイタリアの作曲家のなかで、ノーノだけが晩年、音の向こう側に広がる神秘を書き留めようとした。香炉から漂ってくるような、時にかそけく、時に空間に切込む音楽は、ノーノが以前書いていた人の生命そのものを訴える音楽と随分違ったので、プロメテオの譜読みを始めた当初、少し戸惑った記憶がある。
「プロメテオ」の演奏は、まるで儀式に参加するようだった。時間の経過とともに、次第に深くその世界に吸い込まれてゆく不思議な体験を、何度もした。特にパリで演奏した際には、何が起こったのか不明だが、演奏者も聴衆も途轍もない深い感動に包まれた。
所謂、音楽を聴いて感動する体験からはかけ離れていて、強いて言えば、多少宗教的な感動に近かったのかもしれないけれど、宗教曲の演奏に感動するのとも全く違う。信仰の対象が意識、認識できる類のものでもなかった。
 
ドナトーニ「最後の夜」は、実際の演奏会ではやはり特に熱を帯びていて、演奏中少し怖くなる瞬間さえあった。演奏会後に顔を合わせた知合いは、揃ってドナトーニの本質はやはりこのパトスだとしみじみ話していた。そうなのだ。昏い洞がこちらに向かってかっと大口を開けているような、吸い込まれそうな深い闇をいただく、どこか諧謔的ですらあるこのパトスこそが、ドナトーニの音楽だとおもう。
演奏会の最後に、アンコールの代わりにブソッティ「いつも練習(Studia sempre)」を演奏し、没後1カ月になるブソッティを偲ぶ。
 
10月某日 ミラノ自宅
一瀉千里に読み切った「クララとお日さま」。歯痛で作曲できないと読み始めて止まらなくなった。その最中、ぼんやりとラーゲルレーヴの「ポルトガリアの皇帝さん」の温もりを想い返していたのは、なぜだろう。内容も時代も文化背景も全く関係なく、敢えて二人の作家に共通する点は、ノーベル文学賞の受賞歴くらいかと思うが、一体何が、思いがけなく自分の裡で二人を結び付けたのか。
イシグロのきめ細やかで解像度の高い描写表現の鮮やかさに圧倒されながら、こんな風に音楽が書けたら、どんなにか素晴らしいだろうとも思う。平易な表現で、透徹な描写を無数に連ねてゆきながら、人の温かさを読者の裡に宿す。
「クララ」最後の回想場面は、自分が漠として想像する死後の世界に似ていた。死んで躰は朽ち果て骨になるまで、人はちょうどあのような感じで過ごしているのかもしれない。イシグロは、とても日本的な視点から時間の推移を見つめ、書き留めているとおもう。
もしかすると、この部分がラーゲルレーヴの「幻の馬車」の記憶と無意識に重なって、思いがけなく「ポルトガリア」が浮かび上がってきたのかもしれない。
 
10月某日 ミラノ自宅
ルカがフランチェスコ修道会が立てた小屋でリサイタルを開いた。ベートーヴェン、エロイカ変奏曲やリストのハンガリー狂詩曲と一緒に、ハンス・ビューローのリスト編作を聴く。
ハンガリー狂詩曲がなぞる「ヴェルブンコシュverbunkos」は、当時のハプスブルク支配下でのオーストリア軍の募兵キャンペーン音楽だから、と言って弾き始め、あたかも酒場で楽団が気分を盛り上げるように弾いて聴かせた。なるほど、ヴァイオリン弾きとツェンバロンを携え占領地にでかけて、無邪気な田舎の若者の士気を駆立てる音楽だったわけだ。
ルカ曰く「エロイカ変奏曲」は、本当は「プロメテウス変奏曲」と呼ばれるべきだと力説し、当初ヨーロッパの解放者だと信じられたボナパルトへの敬愛を早々に捨てた、現実主義者ベートーヴェンを讃えたところ、ナポレオンに征服されたミラノ市民の末裔たちは、揃って大喜びした。被征服者の記憶は、簡単には消えない。
ハンス・ビューロー「ダンテソネット」リスト編作は初めて聞いたが、すっかり気に入ってしまった。ブラームスとワーグナーとの間をうまく立ち回った彼らしい響きで、ドイツ人の憧れるイタリア観とその鄙びた感じもある。
息子と家人は、スカラにて「イタリアのトルコ人」観劇。夜半二人で自転車で帰宅中諍いになり、深夜、自転車で辺りを徘徊する息子をフラッティーニ広場あたりまで探しに出かける。
帰りしな、この夜更けに独りで歩く中年男性から「あなたがたの幸福を神にお祈り申し上げます」と声をかけられ、ドアの開け放たれた乗用車からは、酔いつぶれているのか、薬物で高揚しているのか、興奮した若者たちの哄笑が漏れ聞こえてきた。
 
10月某日 ミラノ自宅
家人と国立音楽院でエマヌエラが演奏する4手版「大フーガ」を聴く。演奏会後にソルビアティは、「大フーガ」を聴くと興奮が抑えられないと歓喜していたが、確かに音楽の愉悦と叡智、興奮すべてが包含されている。昨日聴いたルカの「エロイカ変奏曲」の手触り、ルカ曰く「ビッグバンド」のように敢えて太く、開放的に鳴り響かせるファンファーレを思い出す。
現在、感染状況は未だ落ち着いているが、イタリア全体の実効再生産数は0,96まで上昇し、来週中には1を超える見通し、とレプーブリカ紙に書いてある。
 
10月某日 ミラノ自宅
夕食に上がってきた息子が、ペトルーシュカを聴きたいと言う。幼ないころに彼は劇場でペトルーシュカのバレエの黙役をやったので、ここで熊が出てくる、とか、ここでメリーゴーランドが回っていて、など得意げに説明する。
ずっと彼の方が詳しいと感心しながら耳を傾けていると、突然、随分前に家族でボルツァーノを訪れた折の話を始めた。
「お父さんはあの時ペトルーシュカを歌っていて、一緒にボルツァーノの文房具屋に出かけてノートを買った。ページが一枚一枚切り取れるタイプの。だけど程なくしてそのノートを紛失したんだ。どうでもいいことは、良く覚えているんだよね」。
あれは息子がニグアルダ病院に担ぎ込まれる、ほんの直前のことだった。アルプスの麓のボルツァーノで、未だ少し雪の残る肌寒い春先、リハーサルの合間に一緒に川沿いを散歩し、ケーブルカーで山に昇り、野原で飛び跳ねていた。(10月31日ミラノにて)