1月の終わりに、山田うんの『ストラヴィンスキー・プログラム」で、『5本指』(1921) と『ピアノ・ソナタ』(1924) をソロで、『春の祭典』を青柳いづみこと連弾で弾いた、弾いているとダンスは見えない。いつも見えると、楽器に触る手の動きと踊りの身振りを別な時間にするのがむつかしくなる。「垣間見る」のがよいのかもしれない。眼と手のずれは、ストラヴィンスキーが言う「踊りと音楽の対位法」で、なめらかな流れに波を立てる。手からいうと、意のままに操る音の重さにしばられない、思いがけない「かろみ(芭蕉)」で、音が発見であるように、「印象が表現である馬 (Clarice Lispector) 」。
楽譜を見ながら弾いているとき、知っていると思っていた音楽を、初めて見るようにはできないが、指の手順を躓かない程度に覚えて、眼で見てから手が動く時間を一定の拍から前後に外すことはできるだろう。そのリズムを作るのは、身体を囲む空間、そこに感じる気配との対話かもしれない。かすかな空気の変化が音と絡まって、意識以前に手が動いている、表現の重みなしに。
意味や感情、わかりきった感覚のパターンから離れて宙吊りになっている響き、そのときは指も垂れ下がって、さぐりながら一歩ずつキーからキーへ歩いている。
響きは、音の記憶とも言えるだろうか。手が楽器に触れて出す音は、瞬間に過ぎて帰らないノイズ。だが余韻は音の感じがする。まとまった響きがばらばらになって、それぞれに静まる成り行きに聞き入るのはどんなものか。
手を動かすと言うより、なかばまどろみつつ、動かされている手を見ているような、できれば見ないでも、感触がおのずから動きを続けていくような…
一歩が次の一歩の踏み出しを決める。楽譜があれば、どこに行くかは決まっている。リズムが書かれていれば、おおよその時間も決まっている。かえってそのような限定の内側で、意図もなく思いもなく起こるできごとの、ちいさな揺れ。踏み込み、ためらいが撓(しな)りとなって、撓り、押したり撓めて撓うのでなく、緩めたり緩んで撓うのでもなく、…
ゆらぎ散っていく気づかないこの瞬間の闇 (Ernst Bloch) を残しておく、次の発見のために。石田秀美は「移ろう音の風景に埋もれ、響の縁をさまよう」と書いていた。どうしてこんなことばで書けるのか、…