しもた屋之噺(243)

杉山洋一

今年は庭の芝刈りがすっかり遅れていて、この原稿を送ったら早速とりかかるつもりです。イタリアのマスク規制もこの4月で終わるはずですが、今月は思いがけず親しい友人や息子の学校の先生など、軒並みCovid19で陽性になったりして、これからコロナ禍とどう付き合ってゆくことになるのか、何とも先の見えない心地がしています。ドラギ首相さえも陽性になったため、キーフ訪問がなかなか見通せない状況でした。

4月某日 ミラノ自宅
サンドロ宅で久しぶりにアルテムと再会。家人と一緒にリセンコ作品を何曲か弾いてくれた。昼食時、近くのバングラデシュ料理屋でカレーを食べていると、隣に座っていたスリランカ人がスリランカ暴動の話を始めて止まらない。果ては、敗戦国の日本を分割統治から救ったジャヤワルダナ大統領について、日本ではよく知られているのかと繰返し尋ねられ言葉に窮する。ウィシュマさんの名前まで出たらどうしようか内心はらはらしていたが、幸い話題にのぼらなかった。

4月某日 ミラノ自宅
夜、国立音楽院で、久保君のバスクラリネットとマリンバのための新作を聴く。バスクラリネットは、海をわたる鳥の啼き声のように響く。カモメやウミネコが空を駆けながら発しているような、不思議な広さが目の前に顕れる。協和音は生理的快楽とは一線を画し、素材として自らの意思を持っているように見えた。久保君の身体から抜け出て、自らの領域を築きはじめているのかもしれない。
壮大な脱皮を目の当たりにするかのような清々しささえ覚えたのは、このあと書かれた彼のヴァイオリン協奏曲を既に聴いていたからだろうか。
ダミアーノ作品も美しい。静謐で、二楽器の息遣いを重なりあわせた作品に好感と共感を持って聴く。どちらの演奏も素晴らしかった。とても心地良い晩であった。

4月某日 ミラノ自宅
サンドロ宅で、ズィノヴィと家人の弾くリセンコの悲歌を聴く。リセンコは19世紀のウクライナの作曲家。
ズィノヴィはパヴィアから彼の父の車でやってきた。彼の父親がイタリア語堪能なのには驚いたが、聞けばもう20年イタリアに住んでいると言う。ズィノヴィはウクライナで祖父母に育てられ、最近になってイタリアで暮らしていた父母と住み始めたのだという。彼の父は、民族音楽を奏でるアコーディオン奏者だったそうだ。ズィノヴィも幼少から、民族音楽オーケストラで Tsymbaly というウクライナのダルシマーを弾いていたそうで、民族衣装に身を包みツィンバリを叩くズィノヴィ少年の写真を見せてくれた。
ツィンバリはむつかしいか尋ねると、「簡単です、でも当時は民族音楽は大嫌いでした。クラシックの方がずっと格好良かったですし」と笑った。
意外にもウクライナにはコントラバス奏者が少なく、教師もクラスも限られていたから、イタリアにやってきたと言う。ウクライナにいたころ、ズィノヴィはずっとコントバラスも教えるチェロ教師に習っていて、リセンコの「悲歌」は、元来ウクライナでは広くチェロで愛奏されているから、曲はよく知っていたと言う。
演奏が終わると、彼の父が涙を拭いながら洗面所から出てきて、一同驚く。聴いていたら涙が止まらなくなってしまって、と困ったように笑った。確かに胸に迫る感極まる演奏だった。

4月某日 ミラノ自宅
「Youtube はお客様のコンテンツを削除しました」とのメールが届く。「YouTube チームによる審査の結果、お客様のコンテンツは 嫌がらせ、脅迫、ネットいじめに関するポリシー に違反していると判断されました。そのため YouTube から次のコンテンツを削除いたしました」。
最初は、詐欺・なりすましメールかと思っていたが、どうやら身に覚えのない動画が実際削除されていることがわかり、おどろく。その動画の題名は昔よく使っていたパスワードだったから、ずいぶん悪質だ。
ヴェルディ音楽院に、カニーノさんとルッジェーロの演奏会にでかける。
平均律第一巻誕生300年を記念して、ルッジェーロが、ジョプリンの「エンターテイナー」や、ムゼッタのアリアやジムノペディやハリーポッターのテーマやら様々な旋律の断片でフーガを作り、バッハと一緒に弾いた。
ルッジェーロが自作のフーガを弾くのかと思いきや、カニーノさんがルッジェーロのフーガを弾いた。カニーノさんは思いの外お元気そうで、信じられないほど音が輝いていた。指は勿論だが、耳も頭も声部ごとにしっかりと分離しているのが手に取るようにわかる。
会場でアルフォンソに会うが、何でも学生に「間奏曲 VI」をやらせているという。その学生はアスペルガーで強音癖があり弱音が苦手なので、殆ど音のない「間奏曲 VI」をやらせているそうだ。

4月某日 ミラノ自宅
黒海でロシア軍旗艦 Moskva 撃沈。
アレクセイ・リュビモフがロシア国内のリサイタルでウクライナのシルヴェストロフを演奏して、警察に拘束される。観客はリュビモフに賛同して、演奏後総立ち。久しぶりにロシアの良心を垣間見た気がしたが、リュビモフはその後どうなったのか。プラウダ批判やらジダーノフ批判やらショスタコーヴィチの顔など、古めかしい言葉が頭を過った。
母からのメールで、家にある黄色い清楚な花を咲かせた多肉植物の名前は「薄化粧」だと教えてもらう。

4月某日 ミラノ自宅
40分かかるマンカ新作を聴く。アコーディオン、コントラバスなど特殊な小編成アンサンブルを従えたピアノ独奏曲。マリアグラツィアのピアノが冴える。作曲者は、構造を持たない作品を書いたので、ただ瞬間の連なりとして聴きとってほしいと話していたが、そのせいか40分はあっという間に過ぎて、全く飽きなかった。
強靭で強い意志を持つ音楽。耳で聴くというより、手触り、それも少しざらついた手触りで、音楽に触れながら感じる音楽。無意識ながら彼の音楽に随分影響を受けていたと今更ながら気づく。
会場には昔から知った顔が並ぶ。自分も含めて、みな齢をとったものだ。久しぶりにマンゾーニにも会ったが元気そうで嬉しい。ゴルリは戦争で将来を悲観していた。

4月某日 ミラノ自宅
メルセデス宅で工科大主任のカルロッタと話す。担当クラスにウクライナの学生はいないが、在籍中の何人かのロシア人学生は揃って困窮していると言う。外国送金が禁止され仕送りも届かないので、皆周りの学生に借りるなり、工面してもらうなりして、苦労して暮らしている。ウクライナ侵攻以後、制限がかかっているのか、ロシアの家族と一切電話が通じない学生もいるそうだ。
ウクライナのバレエ団がイタリア公演中で各地で歓待されるとの記事。国歌演奏中の舞台でバレリーナが目頭を抑えている写真が添えられている。ロシア兵の夫にウクライナ人女性への暴行を勧めるロシア人妻の電話が公表。

4月某日 ミラノ自宅
福田さんに「母 Las Madres」を書き送る。
チリの母のうたと、西語圏全土で広く歌われている子守歌「ねんねんころりよころりよ おころりよ Arroro mi nino」を素材に使った。
息子が生まれた時、半年ほどウルグアイ人のメルセデス宅に厄介になり、アルゼンチン、ウルグアイのコミュニティのなかで暮らしていたから、自分にとっては、未だに西語の響きも母的なもの、こどもへの郷愁に繋がる。相変わらずメルセデスは姉のような存在だし、彼女も息子を実の甥のように思っている。
メルセデスに「Arrorro はどう訳せばいいかな」と尋ねると、「ああArrorro mi ninoね」と懐かしそうに旋律を口ずさんだ。
ウクライナ侵攻により、チャイコフスキー国際コンクール、国際連盟より除名。

4月某日 ミラノ自宅
作曲者の心情とは、直截に作品に反映され得るものか。
高校生だった頃、祖父が亡くなった直後にフォーレのレクイエムを聴き、奈落に突き落とされた。曲頭のユニゾンが鳴った瞬間、作曲家は自らの魂で音を書いていると実感し、高邁な精神なぞ縁のない自分には到底作曲できないと感じた。
尤も、作曲中に作者が同じ感情を抱き続けるなど在り得ないから、やはり作品と精神は別の世界に属している気がしたり、ドナトーニの「Duo pour Bruno」を演奏してみて、やはり作曲者の裡と波長が繋がる作品は存在すると思い直したりしながら、この齢になってしまった。

このところ、同じ楽器のために続けて二つの曲を書いて、人間誰しもが持つ、父性母性についても考えている。
元来頼まれて書いたものであっても、作曲して楽譜として記さずにいられない衝動に駆られて、内容も当初のリクエストを大きく逸脱するような影響を受けることがある。
併しながら、それを書かなければ先に進めない、精神の瘤のようになって躰に溜まっているものを摘出しなければ次の作品が書けない、強迫的な感覚は確かに自分の裡にある。
一切の感情を排除して作曲してみようと試みて、ぽろぽろと書いたものをピアノで音を鳴らした途端、隣室で漏れ聴いた家人から悉く酷評され、破棄したこともあるので、作曲の際のモチベーションが案外とても重要なのかもしれない。
戦争について躁的な混沌を「自画像」で書いたから、全く反対に、自らの精神的な世界を「揺籃歌」で書いた。今回の福田さんのための「Las Madres」も、先に諍いについて書いたから、母性を主題にして作曲したくなったのかも知れない。
今まで考えたことすらなかったが、愛憎の感情を露わに戦う父性と、死者を悼み全て赦そうする母性が交互に顕れ、自分を作曲へ駆り立てているようにみえる。

4月某日 ミラノ自宅
息子から、今日は家で一人にしてほしいと頼まれたので、夕刻ふらりとレッコ湖畔を訪れた。
息子が小さい頃、何度となく訪れたレッコ湖から、切りたつ男性的な山肌が大胆に突き出している。空気はとても澄んでいて、静かに波打つ湖面を眺めていると、様々な思い出がとめどなく甦ってくる。
息子が小さい頃は、家族三人で向こう岸辺りにある、ぺスカルロという村に通った。小さな砂浜があって、そこで息子に水遊びをさせていた。
そこへ辿り着くためには、細い石畳の階段で大きな丘を越えてゆかなければならない。春先には村のあちこちで美しい藤の花が咲き乱れていて、眩い風景に目を奪われた。母を連れてぺスカルロまで出かけたこともあったし、息子が病気から快復したころは、抱きかかえて石畳を昇ったりした。
湖畔にある小さな食堂では、湖産の鱸ムニエルが絶品だった。

4月某日 ミラノ自宅
野坂さんとお約束した二十五絃の曲は結局書けなかったが、沢井さんと佐藤さんのための小品のなかに、当時の思いの何かをこめられればうれしい。
野坂さんの葬儀で配られた小さなカードにこう書かれている。
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5・8
野坂さんのヒルダ・パウラという洗礼名を眺めていて、ヒルデガルド・フォン・ビンデンの名前が頭を過る。自らの幻視体験を綴り描いた、女子修道院長であり作曲家でもあった中世随一の賢女で、深く広く信望を集めたところも、どこか野坂さんと共通している。
野坂さんとは「富貴」を主題にした作品を書く約束をしていたから、それとなにか繋げられるヒルデガルドの作品はないか、彼女の有名な幻視画を眺めながら考えている。

4月某日 ミラノ自宅
千々岩君から連絡を貰ったので、家人と連立ってサロネン指揮パリ管の演奏会へ出掛ける。千々岩君が立派にコンサートマスターを務めていて、友人として今更ながら本当に誇らしい。
亡き王女のためのパヴァーヌ、中国の不思議な役人そして幻想交響曲のプログラムで、サロネンとパリ管は満員のスカラ座で見事な演奏を披露し、聴衆は興奮の坩堝と化した。
イタリアとフランスだけでこれだけオーケストラの音が違うのは、何故だろう。絹糸のような繊細さに於いても、バルトークやベルリオーズの激した表現に於いても、立ち昇る香りと音の明度も全く違うし、激す意味そのものも方向性すら少し違う気もする。国民性が長く培ってきた伝統の違いだろうか。これから、ヨーロッパは何を目指し、どこへゆこうとしているのだろう。

(4月30日 ミラノにて)