しもた屋之噺(245)

杉山洋一

ここ暫くミラノのある北イタリアの旱魃は深刻で、昨日はミラノの大司教が干乾びた畑に赴き雨乞いの儀式を行った、とニュースになっていました。感染症で社会は疲弊し、戦争により物流は滞り、物価はさらに上昇し続ける。この下半期に向かってアメリカと欧州、ロシアと中国にますます二極化が増しているようにも感じます。

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6月某日 ミラノ自宅 
相変わらず、すっかり溜まった補講のため、毎日日がな一日学校でレッスンし、困憊して夜帰ると草臥れて居間で眠り込み、夜半に全音解説文執筆。弁当を用意するため朝は6時過ぎには起床する。夕食は家人が用意してくれるので、弁当はこちらの当番である。さて、書きあがるのか。
「シチリアの晩鐘」で強調されている言葉「祖国Patria」「故郷の地Suolo, Terra」「復讐Vendetta」。この諍いの発端は、現地の妙齢への性的暴力だったが、13世紀の当時も今も侵略者との戦いの本質は変わらない。
愕くべきは、Covid以前は誰もが13世紀より文明や社会形態は進化し、世界をつなぐ距離感もますます縮まると信じて疑わなかった。様々な世界条約を採択する国際機関もつくった。
世界規模の感染症が起きれば、人々は以前の感染症と同じように慄き、代理戦争が始まれば、今まで12時間で往来していた航路も、飛行距離は伸びて、軽く6時間以上加算されてしまう。飛行機の切符も、燃料の高騰の煽りを受け、目を疑う値がつく。
我々が妄信していた文明の進化発展など、せいぜいこの程度のものなのだ。起きるはずのなかったヨーロッパへの戦争が始まり、このまま戦争と自然現象で「起きるはずのない」事象が続けば、まもなく世界の大部分から人間はいなくなるかもしれない。それでも何某か生き延びる人はいるだろうけれども、彼らが我々の文明をどう解釈し、理解するのか、興味深い気もする。
我々の未来は、案外、我々が生きるこの文明の先にはないかもしれない、そんなことを、この数年間で考えるようになった。誰が悪いわけではなく、我々全てが、地球の崩壊に何らかの形で加担している。
 
 6月某日 ミラノ自宅
木戸敏郎氏もとい文右衛門氏のミラノ・サローネ個展に出かける。数年前に「虚階」を拝見したときより比較を超えて世界が広がっていて、瞠目する。木戸さんの芸術に対する天命には、以前から国境など存在しなかったし、時空間も自在に絡めとられていた。だから、以前文右衛門氏の「虚階」を見ると、決まってパレルモで通った「古代地中海文明博物館」陳列品を無意識に想起した。
古代ギリシャ人に通じる、大らかな人間賛美や自然愛を見出したからかもしれないし、時間を超越して、案外木戸さんは古代ギリシャ人と同じものを見ているのかもしれない、とも思う。
数年ぶりに「虚階」を拝見すると、彼の世界は、我々の住む、この地球がぽっかり浮かぶ宇宙空間にまで拡張していた。以前の氏の姿勢そのままであって、ただそれが限りなく拡がり続ける。貪欲な欲望がそうさせているのではない。それはまるで、無重力で、最初に弾みをつければ無限に走り続ける、ひとつの台車のようでもある。
矍鑠とした文右衛門氏に感銘をうける。生まれた頃から知っている林太郎が、今や立派に通訳を務めていて、思わず胸が熱くなる。
 
6月某日 ミラノ自宅
市立音楽院のレッスンが終わって、ブラームスの交響曲第1番について家人の考察がふるっている。
「何がすごいって、30分以上演奏した挙句の果て、漸く最後の和音まで辿り着くと、目の前にまるで新しい世界が啓けていると知ることよ」。
最後の和音を弾き終わったとき、気が付くと新しい人生の章が捲られている。達成感よりむしろ、人生に対する肯定的畏怖に近いものか。
 
6月某日 ミラノ自宅
湯河原の法事から帰ってきた父と話す。親戚が集う祖父母の法事は、今回が最後だろうという。年齢的に当然でもあるし、責任の一端も感じているが、親戚が揃う機会を失うのは無念でもある。「仕方ない」、この言葉が跋扈して、自分に近しかった日々の温もりが少しずつ冷たくなってゆくのは、どうにも寂しい。
この夏、ミラノに戻る前に墓参だけはするつもりだが、その際、叔父や叔母の顔だけでも見ることができれば嬉しい。
思えば、子供の頃はずいぶん湯河原に通ったし、祖父母にも叔父叔母にも大層可愛がってもらったとおもう。
夏の間は祖父が海水浴客に「海の家」を出していて、自家製の叉焼をのせたラーメンが本当に美味であった。手羽や野菜を大鍋で煮だしたスープを注いで、ラーメンを作っていたが、今思い出しても、あの「海の家」調理場裏で、ビールケースに座って一人で食べるラーメンは至福の一時だった。
あの叉焼は家ではおかずになっていて、少しソースを垂らして食べると、幾らでもご飯がすすんだ。後年、東京のあちこちのラーメン屋で叉焼を頼んでは、あの祖父の味を探したが、二度と出会うことはなかった。
 
6月某日 ミラノ自宅
一年のレッスンが終わって、生徒たちとバールで歓談。南イタリア、カラブリアからやってきたガブリエレは、Castrum Soundという民謡バンドでアコーディンやオルガネット、チャラメッラやザンポーニャを弾いている。夏の間に60回ライブの予定。今までロンドンやパリのシャトレ座でもやってきたんです、と自慢げである。
現在でも、カラブリアでは、若者がダンスホールで、民謡に合わせて踊るのは盛んだそうで、まず夕食後は市内のダンスホールでタランテルラなど踊った後、大きな街のディスコテカなどへ繰り出して夜が更けるまで愉しむのだという。
チャラメッラは、日本のラーメン屋台で3音だけ使って客寄せに使う、日本のチャルメラという楽器の原型、と説明すると大笑いしていた。
家に帰って調べると、日本のチャルメラは中国から伝わった嗩吶を、江戸時代に訪れたポルトガル人がチャルメラと呼んだもので、正確にはチャラメッラとは別物であった。尤も、遥か昔は同じ楽器から生まれたものには違いない。
ガブリエレ曰く、カラブリアには今も昔ながらの愉快な風習が強く残っていると言う。
彼の故郷の村の中心に、30軒ほど固まって誰も住んでいない一角があって、モナキッド(U monachiddo)という僧侶の格好をした小人が原因だ。
南イタリアのあちこちにこのモナキッドの言伝えがあって、それぞれ少し内容が違うそうだが、ガブリエレの村のモナキッドは、一方の手は柔らかくもう一方の手は鉄で出来ていて、夜半寝静まったころにこのモナキッドが街を徘徊し、目ぼしい家々を訪ねては、主人の枕元にふっと立つ。家の主人の頬を柔らかい手で撫でれば幸運になり、鉄の手で撫でればその家には不幸が訪れる。
それが理由で界隈が無人化するのは不思議だが、現在そこは男女の密会に使われ、麻薬中毒者の巣窟となっている。
その呪いは解けないのか尋ねると、彼の母ができると言うではないか。ガブリエレの母親は代々呪術師の血筋で、何かにつけて村人に頼られている。
その呪いはクリスマスの夜、決まった教会の決まった場所でのみ口伝することが許されていて、そのあとの公現祭(エピファニー)の際、何某かの儀式をして免許皆伝となる。
キリスト教と土着の風習はあまり関係ないらしいが、村の鎮守神にイタリアと日本の違いはないのだろう。
 
6月某日 ミラノ自宅
ドナトーニの誕生日なので、マリゼルラにメッセージを送る。もうすぐシエナのキジアーナ音楽祭の演奏会がある。最初にドナトーニとマリゼルラに出会ったのは、まだ日本の大学に通っている頃、夏季講習会を受けに来たキジアーナ音楽院の広い教室だった。最後にドナトーニと遠出したのも、このキジアーナ音楽院だった。ドナトーニが引退して、当時はコルギが作曲講師を担当していた気がするが、或いは記憶違いかもしれない。
マリゼルラから、自分一人だけで旅中フランコの世話をするのは不安だ、と頼まれたような気がする。音楽院へむかう昇りの石畳を、必死に肩を貸して歩かせたことと、その時とても暑かった記憶だけが、鮮明に脳裏に残っている。
遥々ミラノからシエナまで、きっとマリゼルラの車で移動したはずだ。大層な距離で大儀だったはずなのに、どうして何も思い出せないのだろう。シエナを訪れるのはあの時以来だから、かれこれ20年以上の歳月が流れたことになる。
色々想い出もあって、むやみに触れたくない場所だったのかもしれないし、単に巡りあわせで時間が徒に過ぎただけかもしれない。
 
6月某日 ミラノ自宅
ルカ・ヴェジェッティから連絡を貰った。2013年にミラノ市立演劇学校で彼が演出した、パゾリーニのバレエ未完作Vivo e coscienzaの再演だという。
「Vivo e coscienza」は1960年代に作曲のマデルナと女優ラウラ・ベッティのために書き始められ、未完のまま残されたもの。今回使われたテキストは、パゾリーニの文章を当時養老院で過ごしていたフランチェスコ・レオネッティが朗読したもの。
レオネッティは生前パゾリーニとともに雑誌「オッフィチーナ」を刊行し、「奇蹟の丘」をはじめ、多くのパゾリーニの映画にも出演した前衛作家だが、レオネッティは当初、老衰ですっかり惚けてしまっていて、会話などできる状態ではなかった。ところが、ある時突然意識が戻って語り出すと、そのまま一語一句も直すことなく、完璧に朗読したというから驚きだ。そして、語り終わった途端に意識は再び混濁し、まるで別人になってしまった。
市立演劇学校も市立音楽院も同じ財団によって運営されているが、違う場所にあって、何しろ雰囲気もまるで違う。演劇学校は音楽院よりずっと開放的で、いつ訪ねても心地が良い。
音楽院は学校内は未だマスク着用が求められているが、演劇学校でマスクをしている人は数えるほどしかいない。性的少数者への理解も進んでいるようだが、音楽家に比べて気にする人も少ないのだろう。
とは言え、担当の音楽院の授業では、クラスにいた妙齢4人はそれぞれ二人ずつのカップルになっていた。先日、試験の折、初めて顔を合わせて知ったのだが、別に彼女たちも隠していなかったし、誰も気にも留めなかった。
市立演劇学校では、数カ月ぶりでロッコにも再会した。ブソッティが亡くなった直後、フィレンツェで会って以来である。近況を尋ねると、毎日一枚ずつ、シルヴァーノの絵や楽譜の表紙をスキャンしては、フェースブックに載せているという。
今日は「小鳥さんUccellino」の表紙を公表した、と嬉しそうであった。「小鳥さん」は、ブソッティが最後に東京を訪れた際、自ら歌って披露した、可愛らしい歌曲である。
 
6月某日 ミラノ自宅
サンタンブロージョ教会からほど近いダヴィンチ科学博物館の、ピエトロ・ジラルディのフレスコ画で知られる「会食堂」前室に、1917年製のエラールピアノが置かれていて、このピアノを使い、国立音楽院の学生たちのレクチャーコンサートが開かれた。息子が弾いた「雨の庭」は、ちょっと不思議な体験であった。
冒頭の雨粒は、このピアノで聴くと、小刻みにくぐもった倍音がゆれるような、細かく震えるような、空間を絵筆でかき回したような、まことに霊妙な響きが立ち昇るのだった。そこには、石畳を打つ雨音や、浮世絵状に可視化された驟雨に雑じって、まるで雨の向こうに立ち上る霞や、遠くに浮かび上がる虹まで見えてくるようで、圧巻であった。
「版画」の完成は1903年だから、このピアノより少し年代は前になるが、なるほど彼が思い描いていた雨の庭は、本来はこんなにも具体的に、まるでホログラムのように浮かび上がるものだったに違いない。
息子は、いかにもイタリアらしくドビュッシーを読み解き、演奏してみせた。先生からそう習っているからだろうが、イタリア的な読譜法については、この2年ほど音楽院で特訓してきた、ソルフェージュの影響は少なくないと思う。
傍から見ていると、ここ暫く息子はピアノより余程ソルフェージュにのめりこんでいる体であった。先生が好きだったのか、苦手なソルフェージュが解るようになり、すっかり面白くなったのか。ともかく、観念性を極端に排除した読譜法で、これは素晴らしい伝統だと、家人ともども感嘆していた。
最初に感情で音を読むと、音符そのものが歪んでしまうので、読譜を全く独立した別の生理機構に任せることで、感情のこもった音ではなく、感情を表現する音として、発音することができる。感情のこもった音は、幾ら内部に感情を包み込んでいても、外側は何も感情を顕さないので、感情表現として他者には認知されない。
我々が元来不得手な部分で、日本語は響きが比較的平板で、あまり感情を抑揚に反映させないのを良しとしてきた部分すらある。その分、中に秘められたものの深さや強さに、より心を動かされるのであろう。どちらが正しいというものではなく、結局、美徳は一つではないという、当然の事実と対峙することになる。

6月某日 ミラノ自宅
息子が一人で東京に発つのを見送る。フランクフルト乗継ぎの質問など、何度か電話やメッセージがきたけれど、無事に成田行きに搭乗できた。親切なご婦人が声を掛けて下さり、助けて下さったとのこと。今頃はまだ機中だろう。
急に家ががらんとして、夜半など家が語りかけてくるような、不思議な感じだ。
ロシア軍の精密誘導ミサイルが、ウクライナ・クレメンチュク商業施設を爆撃。
マドリッドの北大西洋条約機構首脳会議にて、ロシアを事実上の敵国と認定。
(6月30日ミラノにて)