しもた屋之噺(246)

杉山洋一

家人の演奏会を聴くため、ミラノから乗った特急でバルレッタまで、アドリア海に沿って南へ下っていて、列車は程なくフォッジャに着こうとしています。つい先ほどまで、燃え立つような夕日が一面を黄金色に染め上げていましたが、今は遠くの地平線あたりが、微かに紅を帯びて浮かびあがるばかりで、そのすぐ背後には、低く漆黒の帳が果てしなく広がっています。ミレーを思わせる薄暗い日暮れのなか、見渡す限り続く田園風景に風力発電の風車が静かに回っていて、その姿は幻想的ですらあります。

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7月某日 フィレンツェ・ポンテ・ヴェッキオ近くの貸部屋
部屋を借りるのを忘れていて、直前になって慌てて劇場近くのホテルを探すが、万事休す。運よくここに無人の部屋貸しを見つけた。とにかく邪魔されずに仕事だけしたかったので、寧ろ都合がよい。昨日の夕食は近くのスーパーで見繕った鯖缶、サラダにチーズにパン。今日の朝食は、昨日買ったスモークサーモンに、湯沸かしで作った茹で卵二つとヨーグルト。怪しげなホテルを取るより安価で充実していて、すぐに食べられるので便利だ。街は観光客の人いきれで、特にこのポンテ・ヴェッキオ界隈は芋を洗うよう。
息子が未だ幼かったころ、二人でフィレンツェを訪ねて、この橋の辺りで写真を撮った。写真を見返すと、彼は小学生半ばのようだが、何故二人きりでフィレンツェに来たのか、全く思い出せない。
リハーサルの合間に、4年ぶりにダニエレと再会する。ボルツァーノで会って以来だ。かの地のオーケストラ芸術監督の任期が満了となり、今年からフィレンツェで手腕を揮っているという。ただこの齢だからね、芸術監督ではなく、あくまでもアドヴァイザー役でね、と謙遜していた。オーケストラの雰囲気はすこぶる良い。第二ヴァイオリンのトップは、まだミラノで学生だった頃からよく知るフランツィスカであった。3年前からここで家庭を築いていて、小さな娘もいる、と嬉しそうだ。昼食は劇場前のバールでモチ麦を食すが、大変美味である。少しくすんだ雰囲気のヴェルディ劇場は重厚なファシズム建築で、ロビーに並ぶどっしりした大理石の円柱が荘重。愉快なのは、昼食休憩中に劇場もシャッターを下ろして閉めきってしまうところだ。午後練習の開始時刻近くまで団員は入口で屯して待っていて、開始5分前に突然シャッターが開いて、皆慌てて雪崩れ込んでいったが、これが日常茶飯事なのだろうか。
 
7月某日 フィレンツェ・貸部屋
昨日のマーラーのリハーサルと違って、ノーノの練習には一貫して、この音を是が非でも引出す、揺ぎ無き信念が必要である。尤も、予想より演奏者の呑み込みがずっと早かったので、とても助かった。何しろオーケストラ団員に雑じって、キジアーナ音楽院の学生もいるから、それぞれ特殊奏法もていねいに説明しなければならないし、強音はどうしてもオーケストラ演奏の常識的範囲で演奏するので、先ずはその先入観を崩し去り、全く新しい演奏の空間を提示し、且つ共有しなければならない。書いてあるものを書いてある通りに演奏するだけでは、恐らく不十分なのである。書いてある記号の解釈をノーノの尺度にまで展開させなければ、演奏は成立しないし、その展開方法を互いに齟齬なく共有しなければ、唯一無二の巨大で強靭な表現とはならない。微分音程も、それぞれが正しい微分音を演奏しようとすると、ただ混沌とした響きしか生まれないが、中心音から各人が耳を使って協和させようと努めれば、互いに離れて配置された7つのグループ通しで4分音のきざはしを渡しあいながら、陽炎のような光度をもった響きが動いてゆくのが見える。一旦4分音の目盛を可視化さえできれば、微分音は思いの外美しく、明確に響く。2000年にエミリオと一緒にプロメテオを演奏した折々の記憶が、不揃いのモザイクのように、陽光を受けながら不規則に明滅する。
練習後、団員に旨い食堂を尋ねると、トスカーナ料理なら劇場裏のOsteria dei Pazziが一番と言う。リハーサルを訪ねてくれた浦部君を誘い、ごくシンプルなトマトのパスタSpaghetti alla Carrettieraを頼んだが、余りの美味に驚愕する。
トスカーナ地方、特に内陸部のフィレンツェ近辺で残念なのは、この一帯は、やはり肉料理が真骨頂であることだ。フィレンツェ風ビフテキは言に及ばず、内臓料理や猪肉のラグーなど、今となっては食べたいとすら思えないのが我乍ら恨めしい。
 
7月某日 シエナ・ホテル
最後にシエナを訪れてから20年以上経つ。どこまでも続くなだらかな丘の稜線が、初夏の光線に眩くけれど、同時にしっとり落ち着いた佇まいも見せていて、気品が香るようだ。10時にフィレンツェ劇場前から皆でマイクロバスに乗り、12時過ぎホテル着。今年の1月、ミラノ国立音楽院オーケストラで弾いていたコントラバスのファブリツィオと再会を喜ぶ。先日、スカラ座のオーディションに最後まで残りながら、最終試験直前にCovid-19陽性で失格となってしまった、と悔しそうに話した。
道中南部訛りの運転手と四方山話に花が咲く。何でも、長くストックホルムに暮らしていたが、当時の妻と離婚し、流れ着くままイタリアに戻ったと言う。子供も2人、スウェーデンの元妻のもとに残してきたそうだ。今は新しいイタリア人のガールフレンドと暮らしながら、シエナで観光タクシーの運転手をやっている。シエナは娯楽が一切なくてつまらない街だ、シエナ人は旧態依然とした、頭の固い連中ばかりだと繰返していたが、かなり変わった観光タクシーの運転手なのだろう。あれで仕事になるのか、気掛かりである。
昨日がパリオ祭だったので、カンポ広場には競馬用の土が残っている。キジアーナ音楽院入口にはノーノの看板が立っていた。最初にここを訪れたのは丁度30年前の1992年7月20日前後で、その時に初めてドナトーニとも知合った。30年後に演奏会のために戻って来るとは、想像もできなかった。当時は指揮など全く興味もなく、勉強すら未だ始めていなかった。つくづく、人生とは不思議なものだとおもう。
理由は何であれ、こうして再訪すると強烈な郷愁に襲われる。30年前、2か月暮らしたアパートは、今も同じ緑色の雨戸をつけていて、昨日のパリオ祭で優勝した「ドラゴン」チームが、細い路地の2階に誂えられた小さな鐘を、景気よく打ち鳴らす。その周りには若者が賑々しく集い、小太鼓とシンバルで行進の調子を整えていた。
街の風情は以前のままだが、目抜き通りに軒を連ねる店だけが入れ替わっている。一瞬、時間は止まったままに感じられたが、昔は点在していた、場末の鄙びた立ち飲み喫茶など、今や姿かたちもなく、隔世の感を強くした。
歴史的中心街を一回りしたが、食欲をそそるめぼしい食堂は見つからなかった。その代り、ホテルにほど近いOsteria Nonna Gina食堂は素朴な佇まいで、迷わず暖簾をくぐった。
グリーンソースのニョッキと、カボチャの花のフライ、それに玉葱のオーブン焼きを注文したが、どれも心から堪能した。
夕刻、街角に立つと、方々の教会の鐘が美しく鳴り響いていて、そのほのかな彩の端麗さに鳥肌が立つ。シエナが、これほど強烈な印象を搔き立てる街とは、露ほども想像していなかった。
当時、30年後の地球の世情など、誰が予見できただろうか。あの頃はエイズが社会問題になっていて、ヨーロッパを訪れるのすら、多少の恐怖を覚えた。
ふと気が付くと、ホテル横から伸びる、だんだら坂の眺望には覚えがあった。その昔級友たちと連立ち、この道を辿って先の教会へと夜の演奏会に出かけたのである。ウーギとカニーノの室内楽演奏会ではなかったか。今は、この真赤な夕日に染まるトスカーナの丘稜をなぞりながら、鳩やツグミの啼き声を耳にするだけで、思わず涙が零れそうになるのは何故だろう。あの頃、自分は本当に無知で無頓着であった。もしかしたら、当時は当時なりに沢山感動して、一所懸命その瞬間を生きていたのかもしれないが、今や何も覚えていない。
 
7月某日 シエナ・ホテル
ドロミーティのマルモラーダ山から氷河崩落。12人死亡。2004年から2015年の間に、この氷河の割合は30%から22%に減少。今後20年から25年の間に消滅すると予測されている。異常な熱波が原因というが、いよいよ世界規模で気候変動が顕著になってしまった。
 
7月某日 ミラノ自宅
今朝はイタリア全国でタクシーがストライキをやっていて、ホテルからシエナ駅まで、イギリス人の老夫婦と一緒にマイクロバスで送ってもらった。
厳格な審査を通過し、大枚はたいて漸く落掌したタクシー運転証を、今後はウーバーの運転手にも等しく供与、と政府が提案したのだから、タクシー協会が激昂するのは当然である。
シエナからフィレンツェに向かう二両編成のローカル線は、観光客と通勤客が相俟って、文字通りの鮨詰め状態になった。ドアが壊れているのか、10秒ごとに低いアラーム音が鳴りつづけて姦しい。
昨日の演奏会直前、短いドレスリハーサルが終わったところで、第一ヴァイオリンで弾いていた男に声をかけられる。
「最初のリハーサルで、あんたが微分音云々言っていたときは、何冗談言っているのかと笑っていたが、耳が慣れてくると、あんたの言う通り聴こえてくるものなんだねえ。こりゃ驚いた。目から鱗が落ちるとはこのことだ」。
ミラノのタクシーも当然ストライキ中なので、中央駅手前のミラノ・ロゴレード駅で下車し、のんびりバスを乗り継いで帰宅した。昼食を摂り昼寝して、陽に翳りがみえたところで庭の芝刈り。
 
7月某日 ミラノ自宅
昼過ぎ、浦部君と一緒に在チューリッヒでイタリアを旅していた増田君来訪。この処酷暑が続いていて、最初に西瓜とメロンを出して喉を潤してもらった。
今や庭に大きな叢をつくるセージを摘み、玉葱のパスタに加えた。彼ら若者にはサラダと一緒にソーセージなど焼いて出す。増田君はチーズとワインを、浦部君はジェラートを土産に持ってきた。二人とも、何某か方法を見つけて、このままヨーロッパに残りたいと希望している。不安と期待が入り雑じった彼らの話に耳を傾けつつ、その昔、この時期になるとエミリオがたびたび自宅に招いてくれたのを思い出していた。
奧さんや子供たちがヴァカンスで田舎に出かけ、演奏会シーズンも終わったちょうど今頃、適宜あり併せの食材で、シンプルながら美味な料理を、手際よく用意してくれたものである。
食事も終わり、彼らを送り出そうとする頃になって、外に駐車していた青い小さな自家用車のなかで、少年が喚いているのに気が付いた。周りには少年を執成そうとする母親が姿もみえるが、手に負えず困り果てている。喚く、というより泣き叫んでいるようでもある。事情は判らないが、兎も角悲嘆に暮れ、放っておいてくれよ、と怒鳴るばかりだ。
皿を洗い終わっても未だ叫び続けているので、流石に心配になって、水筒に氷水を入れ、母親のところへ届けに行った。
「大丈夫ですか」と尋ねると、母親は「大丈夫ではないどころか、彼は今絶望の淵にいるのよ」と深く溜息をつき、頭を抱えてしまった。聞けば、子供のように喚き続ける少年は実は既に18歳で、恋煩いに嘆き苦しんでいると言う。相手の少女は未だ15歳で、彼女の両親が交際には若すぎると反対していた。
「兎も角わたしが届けても取り付く島もないので、申し訳ないけれど、あなたがこの氷水を届けてやって貰えないかしら」。
相変わらず車中で泣き叫ぶ少年のところに赴き、「ほら、氷水だよ」と水筒を差し出した。すると、突如泣き止んだかと思うと、「ありがとう」と素直に受け取ったのには、寧ろこちらが驚いてしまった。余程喉が渇いていたのか、一心不乱に喉を鳴らして飲み始めたので、安心して家に戻った。
すると、すぐに浦部君から電話がかかってきた。何でも増田君が拙宅にパスポートを置き忘れていったらしい。彼はチューリッヒ行の長距離バス乗り場で気が付いたらしい。
確かに床に黒の書類入れが落ちていたので、慌ててそれを拾って、自転車でロット駅まで届けようと玄関を出たとき、前の中学校庭のあたりを、件の少年が静かに歩いていた。
彼はやさしく車椅子を押していて、凛とした風情の黒人の少女が坐しているのが見えた。
 
7月某日 ミラノ自宅
目を覚ますと、家人から「あべさんがうたれた」とメッセージが届いていた。夕方のレプーブリカ紙には「日本のSP、犯人に気づかず」とある。
町田の両親はワクチン4回目接種。引続きファイザーとのこと。母だけ青痣が浮き出てきたが、副反応はないらしい。
息子は東京から愉しくシエナの外国人大学のオンライン講座を受けているそうだ。ミラノ生まれだから伊語の発音ばかり良くて、しかし内容が伴なっていない、と本人は気にしているらしい。
 
7月某日 ミラノ自宅
昼前に歯科に行き、残っていた一方の親知らずを抜歯。その場で抗生物質を飲むよう指示され、錠剤を口に放り込む。しかし、麻酔が効いていて薬が口に入ったか、呑み込んだかも判然としない。話すこともままならないが、それでも何とか看護婦にその旨を伝え、口を覗き込んでもらって、薬を無事呑み込んだことを確認。ロシアからドイツへのガス供給停止。
 
7月某日 ミラノ自宅
余りに日中が酷暑なため、日暮れを待ってマリゼルラの家を訪ねる。先日のシエナの話を彼女が聞きたがったからだが、会ってみると、思いがけず戦争の話ばかりになった。
マリゼルラの父は調律師であった。パルチザンではなかったが反ファシストで、黒シャツ隊が通りかかっても敬礼もせず背中を向けていたと言う。ファシストたちに告発されると、彼らの家のピアノを無償で調律しては、見逃してもらっていた。
戦時中、彼らファシストは、ユダヤ人など強制収容所に連行された家族から、留守宅の鍵を預かっていたのだが、実際は留守宅から家財を盗んでは売飛ばしていたという。マリゼルラの父は殆ど戦時中の話をしなかったそうだが、彼らを警察に告発しなかったことを最後まで悔やんでいた。
自宅の入っていたアブルッツォ通りのアパートは爆撃で崩壊したが、マリゼルラや彼女の兄、母親は疎開していて、父親は防空壕に避難していて無事であった。崩落したウクライナのアパートの写真を見るたび、当時のミラノを思い出すと言う。大戦中、ミラノはイタリアのなかで最も爆撃を受けた都市の一つであった。
ロマーニャ地方出身のマリゼルラの母は、若い頃、むしろファシスト党の婦女子社会協力隊の活動を愉しみにしていた。それが友人と外出できる唯一の機会、という他愛もない理由からだが、友達と気兼ねなく話せる貴重なひとときが、実はファシスト活動と知ったのは、それからずっと後、マリゼルラの父と結婚して、ファシズムの事実を理解するようになってからだった。
女性に初めて選挙権が与えられた時は本当に興奮して、彼女は朝の7時から投票所入口の階段に座って開場するのを待っていた。そんな時代であった。
43年1月にマリゼルラが生まれたのは、当時ムッソリーニが創設したばかりのニグアルダ病院であった。その日は大雪で灯火管制がひかれていて、マリゼルラの父親はロレートから遠く離れたニグアルダ病院まで、生まれたばかりの娘見たさに、雪の中を必死に歩いてきた。
戦争が激化し、彼女の母親はマリゼルラや彼女の兄を連れ、故郷のロマーニャ地方に疎開していた。しかし或る時、このままどうせ死ぬのなら家族一緒で死にたいと心を決め、幼い子供たちを抱えて、夫の待つミラノに戻ったという。
 
ロレート広場に吊るされたムッソリーニの死体を、母親は子供たちに見せたがらなかった。それでも彼女の兄は、一度通りかかって目にしてしまい、その姿は目に焼付いたまま今も取れないという。昨今のウクライナ報道を目にするたび、マリゼルラは両親の話を思い出す。もし母が存命だったらどれだけ悲しんだか、と声を落とした。
戦時中、国立音楽院の教師はファシスト党に忠誠を誓わなければ教職を続けられなかったが、それを拒否して身を潜めるものも多かった。そんな中にあって、音楽学者フェデリコ・モンペ―リオ(Federico Mompellio)は、図書館に保存されていた貴重な自筆譜資料全てを、自らの手で運び出し戦禍から守った。彼は反ファシストであった。
53年にマリゼルラが国立音楽院に入学したとき、爆撃を受け大破したままだった大ホールは、ぽっかり口を開いた巨大な穴でしかなかった。ミラノ市民が真っ先に再建したのは、スカラ座劇場であった。
再建されたヴェルディ・大ホールの杮落しには、音楽院の全学生、全教師、全関係者が集って、演奏会を催した。弦楽器、管楽器などオーケストラに参加できる学生、教師は全員オーケストラに参加し、マリゼルラらピアノ科学生などは合唱に参加し、国歌やその他の作品を演奏したというから壮観だったに違いない。その中には恐らくドナトーニも教師として参加していた筈だが、当時は互いに顔すら知らなかった。
ドナトーニが住んでいたヴェローナは、ナチス傀儡政権のサロ共和国のすぐ隣にあったので、若者はSSに捕らわれないよう、1年間は防空壕や教会などに隠れて、息を潜めて暮らさなければならなかった。SSはドナトーニくらいの若者を捕まえると、すぐさまファシスト軍の兵隊として前線に送り込み同郷人との戦闘を強制した、今日のドネツク共和国の内情は、実際どうなのだろうかと、考え込まずにはいられない。
ドラギ首相、2回目の辞職願をマッタレルラ大統領に提出。ドラギ首相を見ていると、先般の菅総理の姿と重なる部分が多い気がする。就任から辞任まで、立場は随分違うけれども、どこか近しいものを感じる。
 
7月某日 ミラノ自宅
異常気象で水不足が続く。スペイン・ポルトガルでは熱波により既に1700人死亡の報道。ミラノの北部鉄道では車両の冷房故障などが相次ぎ、軒並み運休。空港職員のストライキと相俟って、イタリアでは空の便400便欠航。ミラノ地下鉄パッサンテは来週火曜まで運行停止。世界保健機関がサル痘緊急事態宣言発表。
国会で万雷の拍手に迎えられたドラギ首相は、感激のあまり、思わず「中央銀行員の心も、時として動かされることがあります」と述べた。余り感情を表に出さない、彼らしからぬ言葉であった。この一週間ほど前に、彼は自分のお気に入りの笑い話として、次のようにスピーチしていた。
心臓移植患者に向かって主治医が言う。「ここに二つ心臓があります。頗る壮健な18歳スポーツマンの心臓と、84歳中央銀行員の心臓。あなたはどちらをご希望ですか」。
「先生、そりゃもちろん84歳の中央銀行員の心臓です」。
「おや、それはまた何故です」。
「今まで一度として使われてないからですよ」。
心と心臓はヨーロッパ語では同意である。
世界銀行や、イタリア銀行総裁、欧州中央銀行総裁を歴任したドラギらしいスピーチであった。
 
7月某日 ミラノ自宅
家人が演奏会のためにミラノに帰宅したので、息子は東京に一人で滞在中である。こちらから連絡をしても、返事も寄越さぬ彼が、突然ヴィデオ通話をかけてきた。画面にはラーメン店の自動券売機が映っていて、どうやって買えばよいのか、どれを買えばよいのか判らないと言う。「ラーメン」を選ぶと麺だけ出てくるのではと心配している。
食べ始める段になって、どこから食べ始めたらよいかと改めてメッセージを送ってきた。蘊蓄を詰め込みすぎているのだろうか。順番など決まっていないと言っても、納得していない様子であった。
食べ終わったところで、改めてメッセージが届く。スープは全部飲まなければいけないのか、と至極心細い風情である。当然ながら、飲みたくなければ残してよし、と返事を認める。ところで、ラーメンは旨かったかと尋ねると、食べる時に麺を啜れないのが恥ずかしいし、味もしつこいので余り好きではないとのことであった。
 
7月某日 ミラノ自宅
「ウクライナのバラードUkrainian Ballade」自作自演。
ウクライナ・ナショナリストの行進曲”We are born in a great hour”とウクライナ国歌、ギリシャ正教葬送歌断片をもとに作曲。これを書かなければ次の作曲ができない、単にその衝動に駆られたものだ。書かずにはいられなくて作曲したため、誰に演奏を頼むわけにもいかず、結局自分で弾いて簡単に録音した。数音間違えてしまったが、さほど気にもならない。自己満足と言われればその通りだと思うし、音楽作品として成立しないと批判されても、特に返す言葉も見つからない。自作自演の録音など、大学時代の焼酎のコマーシャル曲以来である。
それでも、ヴァイオリンのアルテンはとても感激していたから、やはり書いてよかったと思う。彼が未だキーフに戻らずここに居るのを知って、少し安心した。弾いたものを聴き返しても、陰鬱なばかりだから、演奏会で聴きたいとも思えない。社会的な主題に則りつつ、作品から社会性が根本的に欠落している。そういう音楽の成立もまああるのだろう。
我々はどこに向かうのだろう。我々が長年培ってきた文化や文明に、未来はあるのだろうか。
(7月31日 レッチェ行特急車内にて)